述べとは?/ キャッシュワン
[ 533] 切込隊長BLOG(ブログ): みたび、思いのたけを述べてみるのと、ちょっとしたお詫び
[引用サイト] http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/12/post_7420.html
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お詫びのほうから先に。前回前々回のエントリーについては、繰り返しますが特定の誰かおよび発言を否定、批判するものではありません。各々の立場、見解はそれが合理的である限り、ネットや新聞、雑誌、講演等の分け隔てなくその表現を認めるべきであって、それを封じようという意図は私にはまったくありません。この私の発言の真意が正確に伝わらなかった可能性があるとするならば、その原因は私の文章力に問題があったことに尽きると思っておりますので、ご自身の意見を私に否定された等として気分を害された方、ならびにその仲介の労を取ってくださった方には深くお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。 また、私は一部特定の知識人、有識者の方のご意見に対する反論という意図を有していないにもかかわらず、会議等で明確にそれを否定しなかったという理由で強い反発を頂戴した件については、私自身の至らぬところもあったと自省し、改めてお詫び申し上げます。 ○ ひとつの現象の意図を推察するには、その現象の背後関係(コンテクスト)から合理的に推察される複数の可能性(シナリオ)を考えなければならない ・ どれかひとつのシナリオがいかに信憑性高かったとしても、当事者でなければそれが本当であるかどうかの真意は分からない ・ いかに当事者からヒヤリングしていたとしても、そのヒヤリングした人物と当事者とのコンテクスト次第では真意でない発言をすることがある ・ 真意でない発言をしていたとしても、真意が語られなかった事情(コンテクスト)が存在するのであれば、それもまた合理的である ・ 真実、事実が語られないことそのものが「悪」であるという、善悪の物差しで考えることは合理的ではない ・ 小泉純一郎、奥田碩、渡辺恒雄の有力三氏のバランスで進んできた権力中枢で適切な世代交代が進んでいるかどうか判断が分かれる ・ メディアや産業に対する統制で成立していた権力構造が崩れ、”自民党政権”そのものの堅牢性が損なわれたあとの展望が違う ・ したがって、選挙における政党からの助成や党議拘束など権力の源泉が枯渇し、重要な政治過程で必要な求心力が存在しない ・ 米国のリセッションと中国のバブル崩壊はどちらが現実化するか、あるいは、一体化しているとしたらどのような対処が考えられるか ・ 米国のリセッションと中国のバブル崩壊のあとについてのシナリオは誰も分からないので、対処を考える外交工数を割くことができない ・ 米国の一極支配が緩やかに続くと考える人と、これが崩れ米欧中他のグレートゲーム再来と考える人とでシナリオが変わる ・ これ以上国際経済が成長することが、影響力の及ばない国々の発言力を相対的に伸ばすこととなり、これを制限しようというプレイヤーが出るのかどうか → つまり、先の分からない(いつものことだ)状況だが掛け金と掛け先を外すと、日本が座席を失う可能性が「ある」と考えるか、どのような状況でも日本は大丈夫であると考えるかという負のディシジョンツリーは確実に成立する A.は政治的にまとめるだけの大義名分と、説得しきるだけの権力が足りない。団結したくてもできない状態を無視・軽視して、情勢を過大評価し、危機感を煽るだけの結果となる B.は問題の本質を国民に転嫁し、絶対に解決しない永遠の課題である「戦略的思考のできる一億国民」という別の問題に振り替えて解決を先延ばしにしようとしている C.は日本企業の経営陣の判断基準や経営者となっていくコンテクストからすれば、彼らが解決の主体となるという薄い可能性に賭けることになり、負ける博打に進むことになる E.は個別はともかく相対で判断、アメリカ金融界は中国との一蓮托生を選ぶかどうか。駄目だったら大リセッションとなるが、それを促進するのも防止するのも現在の日本のパワーでは無理である以上、考えるだけ無駄。状況を眺めるほか方法なし F.は単純に考えれば中国の国家が解体的崩壊した場合におきる経済的、暴力的問題に対してどう「土嚢」を積むかという問題、ただし、地震予測と同じくその対策規模が大きいほど工数がかかる。起きなかったときのコスト、リスクが大きい H.は解決策の策定よりも解決策の実施が困難という珍しい状態に、ただし解決策は事前準備さえしておけばそれ相応に存在するものと考えられる H.→G.と見たとき、シナリオごとに問題を起こしているプレイヤーが違うことに気づく、よって包括的、国家的問題であって、鳩山邦夫氏が語ったことはそれ相応に事実である ・ 中国は国体の維持のためにこれらの資金を使うよりも、外部からの国体攻撃に対抗する影響力確保に動く可能性が高い ・ 中国は資源確保のための企業買収などで培ったノウハウを元に、ブラックストーンやモルガンスタンレーなどへの影響力を買った ・ 中国が工数をかけて獲得したこれらのツールが、日本を直撃するかどうかは、純経済合理性で考えるならばありえない。日本経済にのびしろはないから ・ だが、中国の目的が投資収益ではなく、別の目的だった場合に、大変暴力的な資本カードを切ってくることは考えられる ・ 日本には有力な対抗手段が存在しない。いままでずっと協力してきて、より明るい将来を保証する説得力のあるシナリオを提示できないからだ ・ 日本は権力中枢では、一部の指導者がすでにアメリカもしくは中国の意向に依存して国内に影響力を行使していると判断して良いと思われる ・ 一番日本が国際的影響力を堅持できるのは「何もしないこと」を対外的に合理的に説明できるカードをこしらえること? 補足:ブラックストーンやモルガンスタンレーについては、すでに中国系資本から潤沢に資金を貰って日本の不動産や株式を買っている可能性が高いであろうし、一部でそれは衆知であるから、もう隠す必要がなくなったのとMSは現実に金に困っている確率が高く金の出ない日本より金を使わなければならない中国に頼りに行ったのは当然といえる というか、モルガンスタンレーが中国のお金を扱ってないなどということはありえないから、ポールソン氏が日本ではなく中国を訪問したことは驚くには値しない(ポールソン氏は中国にすでに70回以上訪問していて、中国側のカウンター要人もいる) ○ 日本は現在、小泉政権の揺り戻しの真っ最中であって、当時の立役者の影響力を封じる派閥抗争中である。構造としては、ある意味、黒船が来て国体の危機を感じた日本人が尊王攘夷だ開国だと斬り合ってる状況とあまり変わらない このねっちりとした書き下しはいかがなものでしょう。「知識人や有識者」も「自ら自分の社会を信頼しなくてどうするんだ」というところの社会の一員でっせ? >・一番日本が国際的影響力を堅持できるのは「何もしないこと」を対外的に合理的に説明できるカードをこしらえること? これは私がやっとるね。あと歴史的には凋落期の英国がやっとるね。まー、アレだ。沈没しそうな船からはさっさと逃げて「沈む瞬間この目で見たよ超スゲー」とか言ってるのが一番なのよ。実際沈んじゃったら死ぬんだから。逃げるなら早め。以後は「何もしない」で「言い放題」が、一番手堅いんだ。 私の場合は、そーゆーのを理屈じゃなくて天然・直感でやってるからアレだけど。こーやって字詰め理詰めでキチンと言うみどりが居るんであれば、そーゆー意見は耳に痛かろうが何だろうが見て聞いて損は無いよね。 ま、システムソフトの「現代大戦略2008」の体験版でもやるか。サブタイトルが「自衛隊参戦・激震のアジア崩壊!」体験版のシナリオは「日中激突:尖閣諸島奪還戦」だそうです 所詮欧米諸国は市場経済による支配体制を譲る気が無いんだから、仮に東欧北欧の一部で「のんびり国家」が成立したとしても、むしろ成立するからこそ、頑張る系の国家は弱小周辺国をより多く作りたいと願うのが当然ですから。ホワイト以外は全部奴隷って思ってるよ。そりゃ。てか、そーでもしないとアラブに殺られる。アラブパワーの方が遥かに強烈なんだから。 日本はねー。さっさと欧米のケツに付いてりゃいいと思うよ。正直。それで奴隷だろうが何だろうが、滅びるよりマシ。中華みたいに俺様中心主義で居ると、絶対半殺しにされるって。一発殴って言うこと聞かなきゃ、次は無いんだっての。それが野郎の掟でしょーが。って感じ。 握りこぶしが飛んでくる前に逃げなきゃ駄目だし、飛んできたら「演歌はこぶし」とか言い張って無理やりギャグにしないと逃がしてくんないよ。きっと。 握りこぶし程度ならまだいいけど、天和上がられたらどーしょーもないよね。天和3連荘とか平気でやってこられた後で握りこぶしチラつかされたら泣くしかない。 自分の運気が今どの程度なのかって確認できるキャラを囲っておくと、何かと便利なわけですよ。カナリアが居ると毒ガス地帯も怖くないって感じですか。 いま東風荘やったらラス局までビリで、ドラ3・7700入って逆転勝ちしたよ。鳴き運があんまし良くなかった。手牌も配牌も悪くなかったけど鳴いたら流れが歪んだ。普通にダマでやってたほうが良かったかも。でも最後の逆転手は鳴かないと入らんかった。そんな感じ。 パッシングとバッシングの区別がつかない奴や、カウンターパートの意味も知らない奴がこんなにいることに驚いた。そりゃ日本先行き暗いわ。 まあなんか最終戦争が起こるのかもしれないけどさ、もっと悲惨なのは最終戦争を起こすリソースすた調達できなくなるっていう事態だよね、まあそっちのほうがまったりしてていいか。 >といって、いわゆる「保守本流」の議論を否定するものじゃない。宮沢氏が日米関係の古き良き日々最後の玉座に座った人物であって、バブル崩壊の後事を託されるのは歴史を見る限りまあ致し方なかったのだなあという理解、というか諦めはある。ただ、社会に出て紆余曲折の末外資系証券会社なんぞに出入りして話を聞く側だった際に「いま我々が好決算を上げ、この暑苦しい国で無理しても稼ぎたいと言う欲望のままに働けるのは宮沢のお陰だ」と外人が口々に言っていたことは忘れない。それが経済なんだと割り切っても、その経済に詳しいはずの閣僚が、経済問題がまさに火を吹くか吹かんかというところで、これといった指導力も発揮せず、バルクで右から左に物件を流すだけの海外ファンドに空前の利益を与え続けるような施策しか取らなかった現状を身をもって知った以上、彼がいかに政治思想や政治過程で重要な役割を示していたのだとしても認めるわけにはいかない。 思い浮かぶことがなくて何年か前に書きこんだことなのかもしれません。しかし人に幻想を抱くこともなければ心配される必要もありません。すべて他人とは関係無に、あるものを理解していくしかないでしょう。あなたの代りはどこにでもいます。人の代りはでこにでもいます。日本の理想の位置どりは多極化する中の一極を担うことであって、それ以上を目指すべきではありません。最大限の力を発揮しようとすれば破局と裏腹です。中国を敵視しているのかもしれませんが、中国と日本は世界の意思決定をする間柄であることが理想的なのであって、アメリカを挟んでの外交など意味がありません。もし中国が、日本の力をそぐためにアメリカとの同盟が望ましいというならそれはそれでしょう。というよりそれは前提の上で動くのであって、一方ではインドまで含めて事を運ぶべきでしょう。日本と中国は仲良くする必要はありませんが、打算は必要です。日本の政治家がそういった姿勢でのぞめばあっちは分かっているはずです。規模や排除の話はどうにかなると思いますが。 アメリカとは多極化の中での日米同盟を望むべきでしょう。向こうがそれを望まないこともあるでしょうが、この辺は能力でしょうか。オーストラリアやいろいろいますが。一極を成すというのはそんなに難しくはないし、その程度のリスクを負えないのであれば、責任を果たせないのと同じです。 何が書いてあるかやっとわかった。2番目と3番目を読んでいた俺がアホだった。まあ上は削除してください。何もいうことはありません。 |
[ 534] 武藤被告に求刑 最後に被告が述べた内容は…(産経新聞) - Yahoo!ニュース
[引用サイト] http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080512-00000945-san-soci
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《弁論を読み上げる弁護人の声が法廷に響く中、勇貴被告はじっと座ったまま。身じろぎもせず、目も閉じたように見える》 弁護人「検察官は解離性同一性障害は仮定のものと言っていますが、鑑定人は解離性同一性障害の蓋然(がいぜん)性が高いと言っているのです」 《「精神鑑定は信用できない」という検察側主張を覆そうと、弁護側は反論を試みる。犯行当時、勇貴被告が正常でなかったことについて、述べていった》 「鑑定では、殺人行為時の責任能力について、解離性同一性障害発症前は心神耗弱、発症後は心神喪失と述べています。いつ別人格が現れたのかについては分からないと言っています。『疑わしきは被告人の利益に』ということからも、殺人についても心神喪失であったと言わざるを得ません」 「被告に有利な事情を申し上げます。アスペルガー障害というのも1つ、また妹の亜澄の挑発的な言動もありました。被害者の両親らは被告の更正を希望し、寛大な処分を求めています。彼らは被告が帰るのを一日千秋の思いで待っているのです」 「また被告は深く反省しています。被告に前科前歴はなく、本来は優しい性格です。発達性障害に対する両親らの理解があったら、本件犯行は避けられた可能性があります。このような事情からも、本件の責任を被告1人に負わせることはできません」 「色々な事情を総合すると、被害者や家族が抱えていた問題から(事件が)起きたこともあり、被告はいずれの犯行時も、被告とは別の獰猛(どうもう)な別人格に支配されており、責任能力はなく、無罪です」 《最終弁論が終わり、勇貴被告の最終陳述に移る。証言席にゆっくりと歩き出す勇貴被告の表情はこれまでと変わらない。淡々とした様子で、裁判長に相対した》 勇貴被告「立ったままで結構です。述べたいことは3つあります。まず妹への思いから述べさせてください。妹は反抗挑戦性障害という病気のせいで、周囲となじめませんでしたが、女優という素晴らしい夢を持っていました。しかし、その夢は兄である僕によって殺されることで、踏みにじられました。僕は本当の意味での償いをしていかないといけません。一生かけて償っていきたいです」 《これまで法廷でほとんど動きがなかった勇貴被告だが、意外にもその声は、はっきりと法廷内に響いた。丁寧すぎる口調が逆に無機質さを醸し出しているようだ》 「次に僕のことを述べさせていただきます。妹は僕のことを『あずみんの勇君』と呼んでいました。妹が天国で『あずみんの勇君はこんなに立派な人なんだよ』と自慢できるような立場の人間に、僕はならないといけません。もし、そのような人間になることができたら、妹は反抗挑戦性障害という病気に気づかれず1人で苦しんでおりましたが、同じように誰からも気づかれず認めてもらえず、1人で苦しんでいる方々に少しでも手助けできるかもしれません。そうすれば、妹も喜んでくれるし、騒がせた世間や迷惑をかけた人への償いととっていただければ幸いと思います」 《自分が殺害した妹と「同じ病気」の人を助けたいとする思いを、感情を込めてよどみなく話す勇貴被告。法廷は静まり返っている》 「最後に、捜査段階での優柔不断な態度が、円滑な審理を妨げたことを深くおわびします。まことしやかに推論を述べず、分からないことは分からない、覚えていないことは覚えていないと強く申し上げねばならなかったと考えています」 「捜査での調書が、さも自分で結論付けたように弁護人に話したことが、円滑な審理を妨げる要因になったと考えています。申し訳なく思っています。この場を借りておわび申し上げたく思っています。まことにすみませんでした。ご静聴ありがとうございました」 《裁判長に「(弁護人の前の被告人席に)戻ってください」と指示されると、勇貴被告は「ありがとうございました。失礼します」と応じた。裁判長は判決公判を5月27日午後1時半に開くことを告げ、公判は午後2時32分に終了した》 |
[ 535] Amazon.co.jp: 文の述べ方 (日本語文法セルフ・マスターシリーズ (6)): 森山 卓郎, 安達 太郎: 本
[引用サイト] http://www.amazon.co.jp/a??a?Re?°a?1a?1-a?\a?¬ea?a??a3?a?≫a?≪a??a?≫a??a?1a??a??a?・a?aa??a?o-6-a£Ra±±-a??e??/dp/4874241298
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[ 536] 述べて作らず:So-net blog
[引用サイト] http://tbs.blog.so-net.ne.jp/
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ここまで伝統が破壊されてしまった社会に生きている私たちには、もうそれほど有効な精神的資産は残されていないと覚悟していなければならないでしょう。 仏教はそういう私たちに残された、数少ない精神的資産なのです。とりわけ、「グローバリズム」と呼ばれる一神教型資本主義にたいして、 力強いオルタナティブを提案できるのは、仏教の思想だけなのかもしれないという気もします。「野生の思考」だけではこの事態に立ち向かうことはできません。 神話をはじめ、いわゆる「未開」の人々が「野生の思考」によって作り出してきた文化に対して、中沢先生が深い尊敬と愛情を抱いている、 しかしここでは、「グローバリズム」とは異なる未来を模索し、切り開いていく力は、現代に残された断片的な「野生の思考」の中にはないのだ、 ということが言われています。このことに関しては、レヴィ=ストロースとの対談に触れた次の文章にもとりあげられています。 パリの人類博物館で開かれている「レヴィ=ストロースのアメリカ」と銘打たれた、自身の生涯と仕事を回顧する大きなエギゼビションの会場で、 (中略)二十世紀の生んだこの最大の人類学者は、対談の最後にぼくにこう語った。「私は自分の生き方について後悔したりすることは一度もなかったのですが、 ただひとつ残念なことがあるとしたら、どうして自分はあの地球大航海の時代に生まれあわせることができなかったか、ということです。 私はあの時代に生まれあわせて、(中略)地球上でいきいきと誇りをもって生き抜いていた、新石器時代人の末裔たちと、出会ってみたかった。(中略) 私はそこで、いまではどんな記録にも残されることなく消え去ってしまった、たくさんの事実を発見したことでしょう。 いまとなってはもう遅すぎるのですが、そこにはまだ、人間というものの可能性を開く、たくさんの鍵がさりげなく放置されてあったはずなのですよ。 わたしたち人類は、その多くの可能性を閉ざすことによって、いまあるこの世界をつくりだしてきました(中略)」 ぼくは、彼からこんな答えがかえってくるとは思わなかった。ぼくはただ、人類がこれからさき本質的に新しいものをつくりだす能力を、 まだ失ってはいないかどうか、(中略)といった内容のことをたずねたのだ。レヴィ=ストロースは、その可能性にたいして、たぶん否定的なのだろう。 「現代の人間は、商品にせよ、技術製品にせよ、芸術にせよ、つくるに値しないようなつまらないものばかりつくりだし、 このように断言する人類学者の目から見ると、人類はおろかにも、自分のたましいのなかに内蔵された富の多くを、それがどんな価値をもっていたか、 深く考えることもなしに、あまりに無造作に捨て去ってきてしまったように思われるのだろう。それはおそろしいほどに正しい見解だ ここで言われていることを見ると、「もうそれほど有効な精神的資産は残されていない」というのが、どんな事態を指しているのかよくわかると思います。 私たち現代人は、過去の人々が作り出してきた精神的資産をあらかた失ってしまった時代を生きている、というのです。 そして、そのとき、多くの土地で、新しい「世界宗教」的な思想の最初の受容者であり、理解者であり、実践者となっていったのが、 もともとシャーマンや呪術師として、高度な知識と精神の技術の体系を身につけていた、新石器革命以来のあの「野生の知識人」たちだったということは、 (中略)野生の知識人たちは、仏教のような世界宗教のなかに、自分たちがうけついできた思想や技術の体系を、 新しいレベルに飛躍させていく可能性を発見し、むしろそれを積極的に自分のなかにとりいれようとさえしたのである(「同上」『同上』p.13)。 「野生の思考」の社会の中でも、とりわけ人間の精神についての深い探求を行っていたのが、シャーマンや呪術師たち「野生の知識人」です。 野生の知識人たちは、彼らの共同体の文化の限界を超える可能性を仏教の中に発見し、積極的に仏教を受け入れる役割を担った、というのです。 そして、多くの価値あるものが失われてしまった現代においても、仏教には「グローバリズム」とは異なる未来を開く可能性がある、というのです。 これは仏教が、過去から伝えられた言葉や文字ではなく、人の心の本性を考え方の基盤に据えているとういうことから生まれてくる力なのだろう、 と私は思うのです。ダライ・ラマも、フランスの実業家であるファビアン・ウァキさんとの対談で、こんなことを言っています。 ファビアン (中略)慈悲心の開花を妨げるよくない感情を取り除いていくことができれば、慈悲心は自然と育ちはじめるのでしょうか? ダライ・ラマ (中略)現代の世代が、大きな希望を抱くこともできず、「失われた世代」のように見えるというのは、たしかにそうですね。 間違いは、教育や環境全体から生じています。しかし、現状はまったく絶望的というわけではありませんよ。私は繰り返していますが、 私たちはみな人間という存在であり、私たちの深い本性は慈悲心を宿しているのです。私たちの一人一人が、もっとも残酷な人ですら、 この潜在能力をその奥底に秘めているのです。(中略)今現在、世界全体を変容させることは難しいように私には思えます。 しかし、(中略)二十世紀の終わりには、人間性という概念は、一九四〇年代のそれと比べても、それどころか、六〇年代や七〇年代に比べても、 しかしその仏教も、ここ数百年のあいだはさしたる思想的発展もなく、一神教型の資本主義が地球上のあらゆる場所に浸透し、人々の生活や考え方をその経済システムにあわせて大きく変化させるようになってくると、かつてのような生きた思想としての活力を失って、社会の一角にこぢんまりとした場所をあたえられて、そこに安住してしまうようになってしまいました(『対称性人類学』p.146)。 ここでは「ここ数百年の間、仏教は停滞している」ということが言われています。これまで見てきたように、『対称性人類学』は一万年単位で人間についての考えを展開しているものですから、それに比べると数百年前というのは、ごく最近ということになりますが、中沢先生が最近の歴史についてどんな考えを持っているのか、ということにここで少し触れておくのもよいかと思います。 ではまず、数百年前頃までに日本で発展してきた仏教というと、それは鎌倉新仏教ということになると思うのですが、その中でも特に重要なのが、禅と浄土思想なのだそうです。 鎌倉時代は、私の考えでは、日本的霊性のもっている最も深奥なところが発揮せられた時代だと思うのである。(中略)武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創案した。武家文化は更に公卿文化を統摂することによりて、禅精神をして日本人の生活および芸術の中へ深く浸透せしめていった。一方、浄土系思想は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中に結実した(鈴木大拙『日本的霊性』p.78-79)。 仏教に関してい言えば、鈴木大拙の『日本的霊性』(岩波文庫)、あの本は僕はもう一回、ちゃんと日本人みんなが読んでもらいたいぐらいすごい本だなと思います。そこでは、禅と浄土真宗のことが取り上げられていますけど、べつに禅宗のことを言ってるわけではないんですね。生活の中に浸透した禅のことです。日常生活の中で仏の教えが、花を活けたり、歩いたり、ものを食ったりするときに、浸透していく、これが禅だと。これに対して浄土真宗について、鈴木さんがほめているのは、べつに蓮如(れんにょ)のことでもないし親鸞(しんらん)のことでもない。彼は妙好人(みょうこうにん)のことをほめるのです。島根の下駄職人をやっていた妙好人のような人のことです。無学文盲と言われる人たちが、自分の感謝の気持ちを言葉に綴って、その言葉どおり生きた、 これが日本的霊性のあらわれとして最高だって鈴木さんは言うわけですね(河合隼雄,中沢新一『ブッダの夢』1998年 朝日新聞社 p.29)。 それまでの日本では、仏教は一部のインテリがやっていただけだったのですが、鎌倉時代になってはじめて日本人の魂(=日本的霊性)にフィットした仏教が生まれてきて、武士から一般の民衆まで仏教が広がっていった、ということなのだと思います。 そして、宗教に限らず、日本という国が大きく変化していったのが、この鎌倉時代から室町時代にかけてだったようです。このことは、中沢先生の『悪党的思考』という本に詳しく書かれています。 後醍醐天皇を中心とする勢力は、その鎌倉の「武家政権」を打倒するクーデターに成功した。後醍醐天皇は、古代天皇制の復活をとなえた。 そのために、彼が中心になっておこなったこの政変は「建武の中興」とよばれることになった。しかし、じっさいそれをきっかけにしておこったことは、けっして「中興」などという言葉でよばれるような性格のものではなかったのである。 後醍醐天皇はほとんど崩壊の危機に瀕していた中世的な権力の構造を、天皇の政治的・宗教的な権威を中心にして改革しようとした。(中略)それが結果的には改革ではなく、解体のプロセスをおしすすめるという皮肉なプロセスをつくりだしたのだ。それ以後、数百年、列島上は「危機」を本質にするような時代に突入していくことになる。それにつづく長いプロセスのなかで、日本人にとっての「認識論(エピステーメー)的」な構造転換がおこったのだ。それは政治体制ばかりではなく、もっと深く権力空間の質そのものまで変えた。思考の構造にもめだった変化がつくりだされるようになった。自然にたいする感性にも変化が生まれてくる。「神」をはじめとする超越者にたいする観念にも、新しい質をもったものが生み出されてくる。(中略)もちろん経済的なレベルでの変化も顕著だった。中世的な「富」の概念が、貨幣に内在する「価値」の概念に脱皮をとげてくる。(中略)ようするに、このときを境にして、均質な空間としての「日本」がつくりだされてくる、近世への運動がはじまるのである(「歴史のボヘミアン理論へ」『悪党的思考』p.16-17)。 この切断、この変化が、十九世紀において、アジアで日本だけが、孤立したまま西欧化を実現できた、その可能性を準備したのである。そのおかげで、この列島には、平和でそれなりに豊かな世界が、築かれた。だが同時に(中略)日本人の精神の深部から、宗教的な能力がわきあがってくる源泉を、この切断はふさいでしまったとも言える(「その後の悪党的思考」『同上』p.386)。 ここに書かれていることは、映画『もののけ姫』に「神殺し」の時代として描かれていたことそのものです。『悪党的思考』も『もののけ姫』も、歴史学者の網野善彦さんの研究に大きな影響を受けながら出来あがった作品なので、この一致は、当然といえば当然なのかもしれません。また、このときに起こった変化については、カイエ・ソバージュ・シリーズの中でも、贈与経済から交換経済への転換として扱われています(『愛と経済のロゴス』p.41-43)。そして、この変化の帰結として現代の日本がある、というのです。 この時代は、仏教が本当の意味で日本人のものになっていった、と同時に、「神」をはじめとする大昔から受け継がれてきたものが、決定的な変化にさらされた時だった、ということになるのだと思います。 これから二回にわたって仏教の話をします。仏教は私がいちばん力を入れて勉強してきた思想ですし、深い実体験をとおして自分の思想がいまやかぎりなく仏教に近づいていることを、私自身よく気がついているからです。この講義をとおして私は「対称性人類学」という考え方を皆さんに説明してきましたが、その考えを極限的に展開していきますと、そのさきで仏教に出会うことになります。 対称性人類学は「抑圧されていない無意識」の働きを、できるだけ純粋な形で取り出してこようとする試みですが、仏教はすでに二千数百年も前から同じ試みに取り組んで、その思想を哲学や共同体の形として、現実世界の中に表現し、実践しようとしてきました(『対称性人類学』p.146)。 ここで中沢先生は、「自分の思想がいまやかぎりなく仏教に近づいている」と言っていますが、一見これは当たり前のことに見えるかもしれません。なにせ先生の「売り」は、『虹の階梯』でデビュー(?)したときからずっと仏教だったわけで、そういう人の思想が仏教に近いということは、なにも取り立てて言うほどのことでもないように思えます。 しかし、この中の「いまや」という部分に注目してみると、以前は今ほど仏教に近くなかった、ということにもなるはずです。実際、私は『対称性人類学』を読むまでは、『虹の階梯』という本が、中沢先生の書いたものの中で「浮いている」という感じを受け続けてきました。そしてこの原因は、『虹の階梯』が普通の仏教の本である、ということにあるようなのです。 夢枕――いま日本で普通の大学生が仏教をと思って本屋へ行くと、仏教の本がずらっとあって、どれを読んでいいかわからないじゃないですか。どれから入るのがいいんでしょうかねえ。宮崎――まず中沢先生の『虹の階梯』(平河出版)がとってもいいです。作家はやっぱり処女作がいちばん優れている(笑)。あれは仏教の基本中の基本です。 ここに出てくる宮崎さんというのは「中沢先生の弟子(自称)」のような人なので、「仏教の基本中の基本」というのは多少割り引いて考えなければならないにしても、宮崎さんは日本の仏教大学を出ているお坊さんですから、『虹の階梯』には仏教の基本的な教えが一通り含まれている、ということは信用していいのではないかと思います。『虹の階梯』も後半部分になると、瞑想修行の具体的なやり方の解説がメインになっているのですが、前半は六道輪廻とか諸行無常とか六波羅蜜とか、日本のお坊さんでも似たような話をしそうなことが書いてあります。とはいえチベット仏教の教えですから、例え話にヤクやらバターランプやらが出てくるところは、日本の仏教と雰囲気が異なりますが、少なくとも『虹の階梯』の前半部分は、仏教の入門書としておかしなことは書かれていてないのではないかと思います。 ところで、中沢先生が「『虹の階梯』から先を書くのが大変なんだよ」と言っていますが、宮崎さんの言うとおり、伝統的な仏教の枠内にいる限りでは、この先は書けないのかもしれません。『虹の階梯』で扱われているのは、ゾクチェンという教えの修行の入口の部分なので、実際の修行ではこの先があるはずなのですが、ゾクチェンは密教(=秘密の教え)ですから、何でもかんでもオープンにしていい、というものではありません。それに、私のような瞑想体験のない人がそのようなものを読んでも、たぶん理解できないのではないでしょうか。だから宮崎さんは「あれ(=瞑想修行)をやるかやらないかでしょう」と言っているのだと思うのですが、それにもかかわらず、中沢先生は「『虹の階梯』の先」の瞑想修行で得たものを、思想として書かなければならない、と考えていたのだと思います。そして『対称性人類学』は、正にその「『虹の階梯』の先を書いたもの」なのではないか、と私には思えるのです。 もちろん、『対称性人類学』はゾクチェンの修行内容を書いたものではありません。しかし、『虹の階梯』によれば、ゾクチェンの本質とは「心の本性を知ること」です。それに対して『対称性人類学』は、バイロジックとして働く人間の心を基礎としています。『対称性人類学』の内容が、ゾクチェンの見解とどの程度重なるのか私には分りませんが、人間の心の本性に対称性の論理があるのであれば、仏教で言う利他とか衆生済度とかいうことを、人間の自然な行いとして理解することができるようになりますし、仏教の六波羅蜜(六つの完成)の中で言われる布施(贈与)や忍辱(忍耐)や不殺生などの戒律は、対称性の論理を本質とした心の自由を求める人間が、日常的にはどのように振舞えばよいのか、ということのヒントとしてとらえることができるのではないでしょうか。 そういう意味で私は、『対称性人類学』を読んでから、『虹の階梯』を「浮いている」と感じなくなったのでした。『対称性人類学』は私にとって、『虹の階梯』と中沢先生のほかの著作とをつなぐものなのです。 では、以前の中沢先生の思想が、今ほど仏教に近くなかったとすると、それは何だったのでしょうか? 『対称性人類学』を読む、ということからすると蛇足になりますが、私はこのことがとても気になりました。色々考えてみたのですが、仏教以外で先生の思想の基調となっていたものの一つに、キリスト教で異端とされた「グノーシス主義」の考え方があるのではないか、と思うのです。 では、その考え方とはどんなものか、ということですが、カイエ・ソバージュ・シリーズの中にも、グノーシス主義について触れた部分があるので、まず、そこから見てみましょう。 昔の「グノーシス主義」と呼ばれたキリスト教徒たちは、自分がまったくなじみのない、見知らぬ世界に投げ込まれてしまっているという疎外の感情を抱いて、そこからの精神的な脱出を図ったものでしたが、マルクスの考えでは、近代の労働者たちもちょうどそのグノーシス主義者と同じような潜在的な疎外の感情を抱いているので、そこからの現実的な脱出をめざす運動へと、飛び込んでいきやすい性質をもっていたわけです(『愛と経済のロゴス』p.150)。 この文章を見ただけでも、グノーシス主義の考え方が、私たち日本人が知っている「普通の」仏教の考え方とはかなり違ったものであることが分ると思います。仏教では真理というものを、どこか遠くの場所ににあるものではなくて、今ここにあるもの、として説くことがよくあります。それに対してグノーシス主義では、「今ここ」から脱出することによってしか、私たちは正しい状態を手に入れることができない、と考えるのです。 キリスト教の正統派に反対したグノーシスでは、宇宙を創造した神は、邪悪で偽者の神で、真実の神は、この世界からは隠されている、と主張された。近代でそういう主張をおこなったのは、意外にも唯物論であった。弁証法的唯物論では、人間の理性が数学としてとりだす、科学のとらえる物質的世界の背後に、無限の深さと複雑さをもつ、もうひとつの「物質」を認めようとしていた(『リアルであること』p.131)。 このように、グノーシス主義の考える世界は、「偽者の神」と「真実の神」という二つの神が存在する、二元論の世界です。仏教でも「知恵と方便」のように、宗教的な真理と日常的な真理とを分けて考えますが、これは両方とも仏教を支える柱であって、一方が真実で一方が偽物である、とされているわけではありません。しかし、グノーシス主義では、「今ここ」にある秩序を持った世界(=コスモス)は、偽物の神が作ったものであり、否定しなければならないものなのです。 今まで引用した部分にも、グノーシス主義と関連があるものとしてマルクスとか弁証法的唯物論とかいうことが出ていましたが、『はじまりのレーニン』にはこのことがもっと大きく取り上げられています。 商品社会のコスモスにたいして、まるで違和感をいだくことのない意識には、(中略)商品という「底」の内側にいても、そのことに気がつかず、自分たちの意識の「底」をつくっているもののむこうに、異質な運動をおこなうリアルが実在することを感知できないのだ。ところが、マルクスの知性は、商品社会のその「底」をはっきりつかみだそうとした。彼の精神は、商品の「底」のむこう側にひろがっている、異質なリアルの実在を、たしかに感じ取っていたはずだ(『はじまりのレーニン』岩波書店 1994年 p.168)。 レーニンの最大の独創は、革命を実現するための「党」に、強力なグノーシス的性格をあたえたことにある。 「党」は、職人的なテクネーをとおして、反コスモスの力を組織化しようとした。それは高い強度で灼熱する、純粋な流動体のようなもので、それがコスモスの支配を破壊していく(『同上』p.201)。 前の引用では、グノーシス主義の運動を「脱出」と表現していましたが、ここではそれが「コスモスの破壊」という非常に激しい表現になっています。そして、以前の中沢先生の書いたものの中には、直接グノーシス主義に触れたものではなくても、このように、「今ここ」にある秩序を持った世界の底を突き破り、破壊しようとする雰囲気を持っていたものが多かったように思います。また、20代の私にとっては、そういう激しさが中沢先生の思想にひかれる理由の一つでした。 しかし、『対称性人類学』を含めてカイエ・ソバージュ・シリーズには、このような不穏な激しさは感じられません。それは『対称性人類学』が、人間の心を対称性の論理と非対称性の論理からなるバイロジックとして捉えることによって、仏教の「知恵と方便」のようなやり方で、思想を展開していっているからなのだろうと思います。 ではここでもう一度、グノーシス主義とはどんなものか、ということについて、専門の研究者の解説を見てみようと思います。 『大辞林』(三省堂、第二版)には(中略)「グノーシス主義」の項目が立てられており、それは次のように定義されている。〔ギリシア gn?sisは「認識」の意〕一、二世紀頃地中海沿岸諸地域で広まった宗教思想、およびこれに類する考え方。反宇宙的二元論の立場にたち、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識することにより、救済、すなわち神との合一が得られると説く。マンダ教やマニ教はその代表的宗教形態。 右の文章の中で「反宇宙的二元論」という表現は分りにくいかもしれない。まず「二元論」とは、宇宙(=世界)や小宇宙としての人間の成り立ちを相対立する二つの原理によって説明する理論のことである。それがグノーシス(主義)の場合、「反宇宙的」というのであるから、負としての宇宙を形成する原理(宇宙形成者、ギリシア語で「デーミウールゴス」)に相対立する正としての宇宙を救済する原理が前提されていることになる。これが「至高神」、あるいは多くの場合「父」なる至高神から人間に遣わされた「子」なる「救済者」なのである。そして、グノーシス(主義)においては至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫ぬいて人間の中にも宿されている。ところが、デーミウールゴスの支配下にある人間はこの自らの本質(本来的「自己」)について無知の状態に置かれており、自らの本質を非本来的自己としての身体性と取り違えている。人間は救済者の告知により、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識(グノーシス)し、神との合一を達成して救済されなければならない。 このようなグノーシス(主義)による救済の告知は、それが急速に広まった古代末期において、それまで人間が常識的にもっていた宇宙・世界・人間観を根本から覆すインパクトを有していた。(中略) 「反宇宙的・本来的自己の認識」への欲求は、「自己」の帰属する現実世界が、世界を包括する宇宙全体をも含めて、宇宙の支配者、その形成者によって疎外されているという極端なペシミズムが生起する時代と地域に、いつ、どこででも成立しうるものである(『ナグ・ハマディ文書�� 救済神話』p.xii-xv)。 この解説を見ると、グノーシス主義の特徴が、いわゆるカルト宗教のイメージと非常に近いものに感じられるのではないでしょうか。私はカルト宗教と共産主義とによく似た不穏さを感じるのですが、それは、日常的には隠されている正しい知識によって、今の現実を支配している誤った秩序を壊そうとする、というグノーシス主義的な共通した考え方を感じるからなのだと思います。 このように、グノーシス主義的な運動では、「今ここ」にあるコスモスを否定しなければなりませんから、常にそれと戦い続けることが強いられますが、それを仏教の方から見るとすると、輪廻の六道のうちの一つである、アシュラの生き方に見えるのではないかと思うのです。 アシュラたちをつき動かしているのは嫉妬である。アシュラは、生まれてこのかた争いばかりくりかえしている。宿敵は神々である。 神々の世界には、あらゆる望みをかなえてくれる「如意樹」が生い繁り、その枝にはあらゆる宝がたわわに実っている。ところが、神々の世界のすぐ下に住むアシュラの世界には、この「如意樹」の幹と根だけがあらわれていて、すばらしい木の実をむなしくあおぎ見るばかりである。アシュラは神々に嫉妬し、そのあげく戦いをいどむ。(中略) はるかに功徳を積んでいる神々は、アシュラの敵ではない。アシュラたちは傷つき、たおれていく。この戦いは嫉妬から起こり、アシュラにひどい苦しみをもたらすのである。アシュラの世界に生まれても、閉ざされた心からぬけだすことはできないことを、深く瞑想することだ これを見ると、グノーシス主義の運動というものは、はじめから良い結果を生むことができない、と言われているようにも思えてきます。 オウム真理教の事件やイスラム原理主義者による9.11の経験で、中沢先生はグノーシス主義のような方向で思想を展開することの限界が見えたのではないか、そしてそのことが、先生の思想が「いまやかぎりなく仏教に近づいている」ということの一つの背景にあるのではないか、というのが、ここまで考えてきて私が思ったことです。 現実の女性の参加を拒みながら、女性のもつ「女性性」という概念を象徴化して表現したものを持ち込んで、男性だけの秘密結社員が豊穣のための儀式をおこなうという事例は、人類学ではおなじみのものです。そこでは、じっさいの女性の参加や女性の姿を具象的に表現した像などは、原則として排除されています(『対称性人類学』p.140)。 ここは、メキシコのウィチョル族によるペヨーテ狩りの実例や、ラスコー洞窟で旧石器時代の人々が行っていた儀礼についての中沢先生の推測が書かれている部分です。このような事例は「人類学ではおなじみ」とありますが、現代の日本に残っているものとしては、修験道の山伏の集団の活動などがあるようです。 修験道の峰入りの修行では、女性が排除されて、山伏は男だけの閉鎖的な集団を形成することになります。女性を排除して、純粋に男だけの集団が、何日も山の中で共同生活をし、山の中を駆け回りながら、さまざまな禁欲的修行をおこなうのです。これは、徹底した男の世界であるように見えます。ところが、女性を排除したはずの、この修行する「男の世界」のかかえる思想的主題は何かと言えば、じつは何から何まで、女性に関係したことばかりなのには、驚かされます。こういってよければ、男たちの集団は、山の中に入って、女性に関係することばかりを、思考したり、実践したりしているのです(『哲学の東北』p.142)。 では、ここで言われている「女性」とは何でしょうか。『対称性人類学』の中には、「思考のつくりあげる現実」と「生の現実」という二種類の「現実」について書かれた部分がありましたが、次ような中沢先生の文章を見ると、どうやらこの「女性」というのは「生の現実」の一つの側面を指しているらしい、ということがわかります。 語られないもの、語られないことをやめないもの、が存在している。それは遠くにあるものではない。それは自分たちの住んでいる宇宙の内部にいて、しかも自分たちを生み、育てたのは、そのものたちなのである。 それを「女」と名づけることができる、と南島の思考は告げるのである(『女は存在しない』p.26)。 前に、「生の現実」とは「触れたり語ったりできないもの」である、と書きましたが、ここではそれが「女」と呼ばれています。では、なぜそれは「女」なのでしょうか。次の対話は『後宮小説』という小説の中に出てくるもので、「女と男を決定的に区別するのは何か」という問いに関するものです。私は、ここに示されている考えが、『対称性人類学』で言われている「女性」というものと、とても深い関係があるように思うのです。 ここでは表面的にはごく当たり前のことが言われています。しかし、この考えを人間や生き物だけでなく、あらゆるものについて当てはめてみるとどうなるでしょうか。人間や動物や植物だけでなく、石や水や太陽や星なども含めた宇宙の森羅万象を生み育てているもの、それが(ラカンと)中沢先生の言う「女」なのだろうと思うのです。つまり、私たちが「触れたり語ったりできる」あらゆるもの(=思考のつくりあげる現実)は何から生まれたのか、と考えたとき、それは「触れたり語ったりできないもの」から生まれた、ということになるのではないでしょうか。だから、「生の現実」とは「女」である、と言うことができるのだと思います。 このような「人類学ではおなじみ」の「女性」についての考え方は、男性だけのグループの秘密の知恵として伝えられてきたものだそうです。しかし、現代ではこのような知恵は、人間の女性にも開放されるべきである、と中沢先生は考えているようです。 「知恵」の獲得には、秘密めいた隔離やエリート的な集団というものが、いつでも必要なものなのでしょうか。そうだとすると、知恵は男たちだけでつくる秘密結社めいた集団の所有物ということになりかねません。 現代科学にも多少そういう秘密結社的な知としての性格が残っていますが、もしそんな風でなければならないとすると、 「知恵を持つ」などというのは、なんとなく閉鎖的で特権的で嫌な感じがします。私たちが求めている知恵は、もっと開放的なものであるべきです(『対称性人類学』p.139)。 以前の女性にとってこのような知恵は、あえて学ばなくてはならないものではなく、生活の中の実感として自然に身につくものであったようです。次の言葉は、『哲学の東北』の中で紹介されている、ウィチョル族の女性のコメントです(『対称性人類学』のp.142-143にも、このことに触れた部分があります)。 「(上略)男たちはあんな苦しい旅をして、彼らを助けてくれるペヨーテの神と出会って、真実の世界を体験することがなかったとしたら、永久に世界の本当の姿は、見えてこないのです。ところが、私たち女性は、そんなことをしなくとも、いつでも、この身体のままで、その世界の本当の姿に触れていることができます。家事をしているときも、畑仕事をしているときも、とりわけ子供を生んだり、育てたりしているとき、私たちは、それにじかに触れていることができます(下略)」(『哲学の東北』p.154)。 しかし、現代の(少なくとも建前は)男女平等の社会では、女性がそのような知恵を自然に身につけることが難しくなっているのかもしれません。だから、女性も男性と同じ方法で、この「女性」の知恵に触れる必要が出てきている、と中沢先生は考えているようなのです。 社会に出ることになった女性たちは、いままで歴史上の女性たちが一度も体験したこともないような、たくさんの闘いを強いられるようになっています。そのために、彼女たちの心からは、余裕が失われだしているのです。「他者」を受け入れようとして、慈悲の本能が免疫の機構を解除したとたん、そこには無垢な心などとはまるで縁のない、無慈悲ななにものかが侵入してきてしまうことを、彼女たちはよく知っているので、未知の宇宙的なものの受け入れに対して、彼女たちは前ほど、おおらかではいられなくなってしまいました。それは、ほんとうにしようがないことなのだ、と思います。 ですから、現代の修験道は、女性たちを受け入れる必然性があるのです。男の世界と、女性たちの生命との双方が、それを求めはじめています。修験道はこれまでは、男の世界が自分の内部に「女性の秘密」を取り入れるために、おこなわれてきました。それをとおして、子宮の中に「他者」を受け入れ、育てることのできる、彼女たちの生命の秘密を学びとり、自分たちが陥りがちなエゴと権力の欲望から、少しでも解放されたいと、願っていたからです。そして、その願いはいまや男の世界だけのものではなく、女性たちのいだく願いでもあるのです(『哲学の東北』p.162-163)。 ただ、この修験道のような例だけでは、宗教的なことや伝統的なことに関心のある「そういう趣味の人」だけの問題のように見えてしまうかもしれません。しかし、中沢先生が目指しているのは、もっと広く、これからの人間が何かを考えたり活動したりするときに、このような「女性」としての「生の現実=語られることをやめないもの」が、「思考のつくりあげる現実」の世界を支えているのだ、ということを常に意識するようになることなのだと思います。 Revolt、誤解のうちにいまや死に絶えようとしていることば。しかしこのことばには、しめだされてあるものを回帰させる、失われてしまったものを取り戻すという語源があることを、忘れてはならない。(中略) ハンナ・アーレントはRevoltのこのような語源的意味を感知しながら、これまで「革命」と呼ばれてきたものを、ふつうの意味にではなく、社会の全ての成員が公的空間の参加者となれるような政治形態をつくりだそうとする行為として理解しようという、提案をおこなった。(中略) ここには二十一世紀的な社会のヴィジョンが隠されている。そこでは、すでにことばになっているもの、ことばになる可能性をもっているものばかりではなく、「語られることをやめないもの」までが、共に立って、たがいをみつめあい、了解しあう事態がおこっている。真実の自由は、けっして語られることのないこのような無が、公的空間のなかに回帰したときに、はじめて実現される(『女は存在しない』p.27-28)。 なにかこれとよく似た体験をしたことがあるのに気づきませんか。そうです。「クラインの壷」と呼ばれる高次元の多様体の表面を歩いていることを想像したときの感覚と、とてもよく似ているのですね。私たちホモサピエンスの知性には、ふつう三次元より高い次元を思い描く能力がありません。そのために、二次元しか認識できない不自由な動物のようにして、この高次元体の表面を歩いていかなければならないのですが、裏も表もない表面の上を中心の在処をめざして進んでいくと、ついに中心にはたどり着くことがないまま、表面全体をくまなく歩き続けることになります(『対称性人類学』p.131-132)。 高次元とか四次元ということは中沢先生の話によく出てきますし、『対称性人類学』の中でも頻繁に登場します。しかし索引を見るかぎり、カイエ・ソバージュ・シリーズのほかの巻には、このことは出てきていないようですので、シリーズを順番に読んで来た人の中には、なんだかよくわからない、と思う人もいるのではないでしょうか。 ここで言われているように、「三次元より高い次元を思い描く能力がない」私たち人間にとって、四次元とかそれ以上の次元を持った世界を理解するのは難しいことだと思います。しかし、三次元より低い次元の世界を想像することはできます。そこで、三次元の世界から二次元の世界を見るとどのように見えるか、ということを通して、四次元の世界から三次元の世界を見たときのことを、なんとなく想像することができます。 僕は、「宗教とは何か」という問いかけに対する答えを一つのイメージで捉えようとすると、よく「四次元」という言葉を思い浮かべるのです。この言葉がはらんでいる深い内容に、とても興味があります。(中略) 例えば、こんな比喩を使ってみましょう。この世界をスープのような世界だと考えてみます。僕たちは「スープランド」に生きています。人間はスープランドの生き物なのです。しかもスープランドの生き物は、スープの表面に浮かんだ油の層にしか生きられない、つまり二次元の世界しか知らないのです。ところが、そのスープランドに突然スプーンが差し込まれたと想像してください。つまり、三次元の生き物が、スープにスプーンを突っ込んでスープを飲もうとしているのです。 この事態を、二次元のスープランドの生き物である人間は、どう体験するでしょう。突然何かわからないものが自分たちの世界に飛び込んでくるのを見るでしょう。最初は点がどこからともなく出現し、それはしだいに大きな断面に広がっていきます。そして時間とともに断面は小さくなっていき、最後に点がその世界からすっと消えていきます。そしてスプーンが抜けた後に、大地震が起こり、自分たちの世界の一定量がどこへともなく、消失してしまっていることに気づくでしょう。 「いったい何が起こったんだろう」と、スープランドの住民は深い衝撃ののちに、考え込んでしまうのではないでしょうか。 これとよく似たことが、たぶん宗教と呼ばれる現象の中で起こるのだと思います。宗教が語ろうとしていることは、こういうことなのだと思います。キリスト教でも仏教でもイスラム教でもどんな宗教であっても、人間が生きているこの世界よりも高次元な領域があり、それは突然この世界の中に入ってくることがあり、人はそれを体験することがあるのだということを語ろうとしています。 それは、人間がこの世界だけに閉ざされた生き物ではないと語ろうとしているのです(『宗教入門』マドラ出版 1993年 p.83-85)。 この「スープランド」というのは、ルーマニア人で宗教学者だったイオン・クリアーノという人の考えたもののようです(「ヨーロッパ思想の東北」『哲学の東北』p.224-228)。因みに、これとよくにた話に、エドウィン・アボット・アボットという人の書いた『フラットランド』(日本語訳には『二次元の世界』と『多次元・平面国』の二つがあるようです)という本があって、中沢先生の書いたものの中には、これに触れているものもあります(「四次元の花嫁」『東方的』p.60)。 前に書いたパスカルの「火の夜」の体験も、このような高次元体験の一つなのだと思います。このように、私たちが感じている三次元の世界は、もっと高い次元の断面の一つに過ぎない、と考えると、いろいろなものの捉え方が変わってくることになるはずです。 世界は断面だという発想は四次元思想の発想です。現実に僕たちが生きている世界は、四次元の現実が三次元空間に切り取られた断面としてここに現れている。だから生命現象も、実は四次元にある生でも死でもない第三の力が、有機体の生と死という形をとる三次元世界に現れているのにほかならない(「四次元の修羅」『哲学の東北』p.39)。 有る/無いとか、生きている/死んでいるということは、三次元の世界では正反対の状態です。しかし、それを四次元の世界からみたらどう見えるでしょうか。ここで、三次元から二次元を見る、というさっきのたとえを使ってみましょう。 二次元の世界の生き物は、縦と横は認識できますが、高さを認識することはできません。だから、自分たちと違う高さにものがあっても、それは無いものとされてしまいます。スプーンがスープランドの中に突っ込まれているとき、スープランドの人々はスプーンの存在を感じることができますが、それがスープから出て行ってしまうと、彼らにとっては「なくなってしまった」ように感じられるのです。しかし、三次元の世界から見れば、高さが違うだけで、スプーンが存在している、ということに変わりはありません。 これと同じで、私たち三次元の世界の生き物は、今この瞬間にあるものしか認識できませんから、未来や過去のものは無いものとしています。しかし、これを四次元の世界から見るとどうなるでしょうか。未来や過去にあるものも、いま現在あるものと、あるということに変わりはないのではないでしょうか。そうすると、生きているとか、死んでいるということについても、今までと違った捉え方になるのではないかと思います。 最初に、人間は「ふつう三次元より高い次元を思い描く能力がない」とありました。では、宗教体験のような特別な場合にしか高次元の存在を感じることはできないのか、というと、そうでもないようなのです。 中沢 音楽も、一言で言うと最高の四次元芸術でしょう。高橋 普通は時間の芸術ということですますんですが、いま中沢さんにいわれてハッとしました。中沢 つまりどこにも存在しないでしょう。一個一個の音符だけでは何の意味ももたない。全体が現れてこないと意味がない。だけどその全体は常に存在していないですね。音楽を聞いている間だけで、その音楽の全体は聞き終わった瞬間に出てくるかというと、それもないのです。消えていくでしょう。これが四次元的なものの特徴です(「同上」『同上』p.58)。 このように、音楽という身近なものを通して、私たちは日常的に高次元に触れている、と言うこともできるのだと思います。 レレ族の穿山甲は、どんな分類の原理にもおさまらない例外的な怪物として、イニシエーションを迎えた若者によって食べられるのですが、そのとき若者はいかなる思考のカテゴリーにもおさまらない、どのような論理からもはみ出してしまう「生の現実(リアル)」というものを、自分の体内に取り込むことになります。怪物的な「生の現実」を食べてしまうことによって、それまであたりまえだと思ってきた「思考のつくりあげる現実」を、いったん解体してしまおうとしているように思われます(『対称性人類学』p.127)。 ここでは、「思考のつくりあげる現実」と「生の現実」という二種類の「現実」がある、ということが言われています。普通に考えると、「現実」の反対は「虚構」です。そして、「虚構」というのは人間の思考がつくり出したものですから、「思考のつくりあげる現実=虚構」と考えてしまえば、ここではごく普通のことが言われていることになります。 しかし、次の文章で言われている「リアル」は、上の文章の「生の現実(リアル)」とたぶん同じ意味で使われているのですが、これはどう考えればよいでしょうか。 物質は、人間の精神にくらべたら、なんという明快なたたずまいをしていることだろう。だが、カントが言うように、私たちは精神のことは語り尽くすことができるかも知れないのに、その精神は、物自体には触れることすらできないのである。(中略)物質というすがすがしくも深遠なるリアル(中略) 存在の岸辺に打ち寄せるその不可解なもの、それを、私は「リアル」と呼ぼうとしたのである。ほかの名前、たとえば「無」と呼んでもいいし、いっそ禅仏教風に「莫妄想(まくもうぞう)」と呼んだってかまわない(『リアルであること』p.134-135)。 「リアル=物質」まではよいとしても、「精神は物自体に触れることができない」とか「リアル=無」というのは、どう考えればよいのでしょうか。ここでドイツの哲学者のカントが出てきましたが、中沢先生が何を「リアル」と考えているのか理解するためには、一旦カントのような哲学者がどのようなことを考えていたのか、私たちも考えてみる必要がありそうです。 さっきは「虚構の反対が現実」という、とても簡単な考え方をしましたが、私たち自身の体験するものとして「現実」を考えた場合、そう単純にはいかなくなります。 日常的に私たちは、目で見たり、手で触れたり、耳で聞いたりできるものを「現実」と呼んでいます。でも、感覚でとらえることができなくても、「現実」であることは沢山あります。例えば、超音波というのは人間の耳には聞こえない周波数の音ですが、コウモリやイヌには聞こえます。では、人間はどうやって超音波という「現実」をとらえているかといえば、思考によってとらえている、ということになるでしょう。 このような非感覚的な「現実」は、思考によって支えられています。そして、思考というのは言葉によって組み立てられています。それに、感覚的な「現実」も、言葉のはたらきと無関係ではありません。コップを見た瞬間、私たちの脳には「コップ」という言葉が浮かぶからです。とすると、私たちが感じているのは「コップそのもの」ではなくて、「コップという言葉」である、ということにもなるでしょう。そして、こういう考え方を押し進めていくと、「存在するのは言葉だけだ」という考え方になるようなのです。 私もそうでしたが、こういう考え方に触れたとき、多くの日本人は、簡単に受け入れることはできないのではないでしょうか。しかし、欧米(一神教の文化圏とか、インド‐ヨーロッパ語族といった方がいいのかもしれませんが)では、そんなにおかしな考え方ではないようなのです。 キリスト教の『新約聖書』の「ヨハネ福音書」の冒頭には「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と書かれています。キリスト教の神というのは、この世界に存在するありとあらゆるもののおおもとですから、「神=言葉」ということは、「存在=言葉」と言っているのと同じことになるでしょう。 西洋の思想や哲学には、こういう考え方がベースにあるものが多いらしく、どうもそれが単なる言葉遊びのように見えてしまって、私はあまり興味が持てないのですが、最近まで(今でも?)こういう考え方は主流だったようですし、仏教の考え方にもこれと似た部分があるようなのです。 その頃の思想めいたことに関心をもっていた学生たちの思考を支配していた一般的な風潮を、一言で表現するとすれば、 それは「存在とは言語である」というものでした。あらゆる存在は言語をとおして、人間にとって意味を持つものとなり、いやそれどころか、存在そのものが言語的ななりたちをしている、という思想が、「構造主義」という名前とともに、当時の若い頭脳たちを、席巻していたのです。 「無意識は言語として構造化されている」という、精神分析学者のラカンの標語が、この当時の風潮をみごとにスローガン化しています。「存在しているものも、存在そのものも、すべては言語的である。言語を逃れた領域はないし、あったとしても、それについては沈黙しなければならない」という考えです。(中略) 仏教哲学の言葉をつかうと、いっさいの意識現象をつくりだすのは、意識の土台をなすアーラヤ識で、このアーラヤ識にはすでに言語的なものの種子がまかれているので、それが生み出すすべての現象は、言語的な本質をもっている。そして、人間はこの意識をとおして存在ということを考えるわけですから、存在は言語的な本性をもっている、ということになるでしょう。ところが、私はこのテーゼにしたがうことが、どうしてもできなかったのです(『三万年の死の教え』p.90-91)。 私は、家の書棚にマルクス主義関係の書物が、ずらりと並んでいるという、とても不幸な(?)家庭環境に育ちました。そのために、いまの私からは想像もつきませんが、子供の頃からマルクス主義の書物に親しんでいました。そのなかでも、とりわけ私の興味をひいたのが、唯物論という考え方でした。 (中略)それは、言語と意識の外にあるものの実在を肯定する、とてつもなく大胆な神秘思想である、と私には思えたのです。 (中略)私にとって、そこで「物質」と呼ばれているものは、意識の外部にある「無限」につながりをもつもので、その「無限」は言語の構造をこえており、もしも言語がその「無限」である「物質」に近づいていこうとするならば、すでに言語によってつくりあげられてあった現実を、「実践」をとおして変化させたり、破壊していかなければならない。(中略) 私は、想像的なものの外、言語的なものの外、アーラヤ識の外がある、と確信していたのです。それも、そういうものにあこがれたり、想像したりするというのではなく、そのリアルを感知し、体験し、認識することをとおして、まったく「唯物論的に」、それに働きかけようとしていたのです(『同上』p.91-93)。 「存在とは言語である」ということに比べると、「存在とは物質である」というのは、わかりやすい、というか、当たり前のことのように思えます。しかし、ここで言われている「物質=リアル」とは、カントやラカンが「触れたり語ったりできない」と言ったもの(=物自体)なのです。でも、そんなものにはどのようにして近づくことが出来るのでしょうか。実際にこの「リアル」に触れた人の例としては、フランスの科学者だったパスカルの話があります。 真空には、無限がつまっているのだ。しかも、それは私たちの世界とは関係のない、どこかの他界にあるのではなく、こうして私たちが生きているこの世界のいたるところに実在しているのだ。ここにも、あそこにも、いたるところに真空があり、その真空には無限の力と多様性が内蔵されている。物体はそういう真空のなかをただよっているというよりも、むしろ真空がつくりだしてくる現象にすぎない。世界を支配しているのは、底なしの真空なのだ。(中略) パスカルのような人には、裸の状態にあるその真空が、その無限が、「見えて」しまったのだ。無意識の奥底で作動しつづけていて、そのおかげで神の無限などというもののことをまともに考えないでもすませられるための「検閲装置」が、何かの拍子にこわれて、彼のまえにむきだしの状態にある神の無限があらわれてしまったのである。彼はそのときの体験のことを「火の夜」と呼んだ。燃え立つ炎とともに、裸の無限があらわれた。(中略)この瞬間、パスカルは科学の限界をこえた。いや、というよりも、言葉の構造がつくりあげる人間の意識の限界を突破した(『ゲーテの耳』p.189-191)。 これを最初の『対称性人類学』の表現と対照させてみると、「生の現実(リアル)=真空=無限(=物質)」「思考のつくりあげる現実=言葉の構造がつくりあげる人間の意識=物体」ということになります。 普通、「物体」と「物質」は同じような意味で使われますが、ここでは全く逆の意味になっているので注意する必要があります。つまり、普通の人間の感覚や思考がとらえる物(=物体)は、飽くまで「言葉の構造がつくりあげる人間の意識」の中の存在であって、「リアル=物質」とは違うものである、ということです。 また、物体と物体の間にある何もない空間を「真空」とするならば、それは私たちの身の周り(分子と分子の間とか、電子と原子核の間とか)にいくらでも考えられます。そして、物体を、それ自体で独立に存在しているものとしてではなく、その周りにある真空で支えられているものとして(図と地を逆転して)考えるなら、「リアル=真空=無」ということも理解できるように思います。 先住民の文化は、このような対称性の論理が思い描いた輝かしい理想の世界を、自分たちの世界の内部に組み込むことによって、出来上がっているのです。もちろんそういう理想の世界は、かつて一度たりともこの地上に実現されたことはないし、また未来にも実現されることはないでしょう。しかし、そのような理想の世界を、思考によって正確に思い描き、神話の力を借りて途絶えることなく語り続けることによって、先住民の文化は人間を堕落させることがなかった、と言えるのではないでしょうか(『対称性人類学』p.110-111)。 これは、南アメリカのグアラニ族が、理想の世界を求めてジャングルを放浪し続けている、ということを紹介したあとの部分です。ここで言われている「理想の世界」というのは、「天国」とか「極楽」とかいう風に言い換えることも出来ると思いますが、信仰のない現代人にとって、こういう言葉が引き出してくるイメージは、リアルなものとして考えられないのではないでしょうか。しかし、昔はこういう理想の世界が「ある」と考えて人間の社会が出来ていたのだとすると、現代の社会はとても大きなものを失ってしまっている、と言えるのではないでしょうか。 フロイトが〈想像的な父〉とよんだ、いまだ未知の〈父〉。その〈父〉は原初の母と協力して、ナルシシズムの空間を新たな可能性をもったものとして作り直す。成年期の人類にふさわしい、大人び子供じみた空間だ。その大人び子供じみた空間をがっしりしたものにつくりあげることが、ニヒリズムへの最大の解毒剤となる。 (中略)彼や彼女は、外でもない、内でもない、ひょっとしたらまだあらわれていもいない、ひとつの場所を発見するのだ。ここからすべてのものが生まれてくる。宇宙も生命も意識も。それはたぶん知性をもっている。あるいは知性そのもの。それは僕たちの内部にある。それを知ることもできる。そして、それは外にもある(「地上にひとつの場所を」『蜜の流れる博士』p.347-348)。すべての物の中にただひとつの空間がひろがっているそれは世界の内面の空間 鳥たちが静かに私たちの中をよぎって飛ぶ おお伸び広がっていこうとする私は外を見る すると私の内部に樹木が成長する この本の中で私が語ろうとしているのは、リルケがこの詩にうたっている「ただひとつの空間」と「樹木」についてだ(『同上』p.367)。 この「地上にひとつの場所を」という文章は、『対称性人類学』とは違って、(半)フィクションとして書かれたもののようです。「理想の世界=ひとつの場所」というのは、無いといえば無いし、有るといえば有る、というところがミソだと思うのですが、こういうことは文学的(詩的)な言葉の方が表現しやすいのだろうと思います。 『風の谷のナウシカ』(映画ではなくて原作の漫画の方。アニメとは大分違う(特に後半)ので、原作を読んだことのない方は、一度手にとってみることをお勧めします)の「青き清浄の地」も、このような場所のことを指しているのだと思います。 「青き清浄の地」は、まずこのような伝説の中の理想郷として語られ、主人公のナウシカは、そこへ人々を導く救世主という位置づけになっています。しかし、物語はそのような単純なハッピーエンドにはなりません。なぜなら、「青き清浄の地」に生身の人間はたどりつけないからです。 『風の谷のナウシカ』は、人間によって汚染された未来の地球が舞台になっています。そのような世界で「青き清浄の地」とは、汚染が浄化された実在の場所です。ナウシカは幽体離脱(?)のような方法でその場所を訪れますが、そこに人間が移住したならば、必ず再び汚染されるであろうと考えて、その存在を秘密にします(『風の谷のナウシカ6』p.86-94)。つまり、「青き清浄の地」は「(行け)無いけれど有る場所」なのです。 このような、想像でしか触れることの出来ない場所が、実際どのように役に立つのか、ということの説明は難しいのですが、それを完全に「無い」と言ってしまうと、世界を不完全で、はかなく消えてしまうものの寄せ集まり、としてしか捉えることが出来なくなって(実際、周りを見渡せばその通りなのですが)、ニヒリズムにおちいってしまうことを避けるのは難しいのではないでしょうか。 西の果てのそのまた西の地の果てよりもまだその先でわがはらからは踊っているよもひとつほかの風に乗って(ル=グウィン『アースシーの風』清水真砂子訳 p.3) 夢のお告げや虫の知らせなどを信じていた私たちの先祖たちは、みんな多かれ少なかれ、この猟師と同じような思考様式を生きていたものです。いわゆる「シックス・センス」は、バイロジックとしてつくられた私たちの心の本質的な部分に触れている能力なのですから、どんなに科学的思考が支配的になった世の中でも、それを安易に否定することはできません(『対称性人類学』p.87)。 私も予知夢を見たことがある(厳密に言えば、予知夢を見たという記憶がある)のですが、こういった超感覚的な体験について、迷信だとか錯覚だとか言って簡単に無視してしまうことはよくない、ということがここで言われています。これは、神秘主義者としてはかなり控えめな態度ではないでしょうか。 このような超感覚的な体験をどう捉えるべきか、ということについては、中沢先生がチベット仏教の修行をしていた時のこんな話があります。 「ポワ」は「意識を身体の外に送り出し、死の状態をコントロールする」ための激しい瞑想のテクニックだ。ラマはこの修行はことのほか大事だと言って、とくにていねいな口伝をあたえてくれた。私はそれを受けたあと、すぐに山の寺に籠って修行をはじめたのである。 七日目の晩、その日最後のセッションも終わりに近づいた頃だ。いつものように「ヘック」という掛け声といっしょに「心滴」を頭頂から抜き去ったその瞬間、私は自分が奇妙な体験をしていることに気がついた。つまり私は自分が身体の外にいて、自分の身体を上の方から見おろしていることに気づいたのである。(中略)私はもっと上方の空間を見てみたいと思い、意識をそちらの方にむけた。すると、そこはまっ赤な光におおわれていた。 「おまえはそこで何を見ていたのだと思う」ラマがたずねた。私は「ポワ」について口伝の中で教えてくれたことを思いだしながら答えた。 「意識(セム)を身体の外に抜き出して阿弥陀ブッダの浄土に送りこめたわけだから、空性というものを体験していたのではないですか」 「ちがう。おまえの見ていたのはただの幻にすぎん。(中略)おまえの体験していたものは空性なんかではまるでない。(中略)おまえの心を探っていけば、水のたまった目玉が外の世界に見てる現実がけっきょくはいちばん堅固なものだと考えてるはずだ。そこでちょっとばかり瞑想のテクニックを憶えて意識の状態を変えることができると、今度はそこで体験したことを絶対化して、名前をあたえ、この現象界にたいする空性だなどと言ってみせているだけだ。水の目玉が見ている現実も、瞑想で体験する現実も、どちらも現実などではない」(「孤独な鳥の条件」『チベットのモーツァルト』せりか書房 1983年 p.10-13) 『チベットのモーツァルト』を初めて読んだときの私は、このような意識の変容した状態にとても興味のある時期だったのですが、ここで言われていることは、非常に重要なことだと感じました。 超感覚的な体験をしたとき、そこで体験したことを「世界の本当の姿」のようなものとして絶対化してしまった場合、その人は自分を優れた特別な存在であると思うようになるでしょうし、そのような体験のない他の人をさげすむようになるでしょう。しかし、ここでラマが言っているように、その体験をとおして、日常体験することも客観的な現実などではなくて、生物としての人間の限界内の(=「水の目玉」が見ている)ものである、というように考えるならば、その人は他の人や他の生き物に対して、より謙虚に振舞うようになるのではないでしょうか。 夢と現実がスムーズに入れ替わりながら、この狩猟民の思考は構成されています。あるときは優れた猟師として、現実世界の原則にあわせながら、「分割し不均質にする」思考を鋭く働かせながら(そこでは熊はなんといっても狩猟の対象であり、彼の敵にちがいありません)森を移動していく彼の心に、なんの前触れもなく対称性の論理で動く時間感覚や空間様式が入り込んできて、そのときには人間と熊のあいだには同質的で対称的なつながりが発生しています。猟師は夢のお告げを信じています。夢が見せてくれた未来の光景、そこには時間の系列や動物と人間の区別もない世界なのですが、この対称性の論理で動く無意識が前もって見せてくれた「ものごとの全体性としての意味」を、この猟師は現実の出来事との協同作用として理解しようとしています(『対称性人類学』p.86-87)。 これは「戻ってきた夢」というカナダのインディアンの民話について解説した部分です。これは、女の夢を見た猟師が狩りに出かけてメス熊を仕留めると、(夢が戻ってきて)彼の妻も死んでしまう、という話です。熊と猟師の話ということでは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」がすぐ頭に浮かびます(私も最初そうでしたが、読み違えて「ナメコと山の熊」だと思ってる人も結構いるみたいですね)。「なめとこ山の熊」は、熊が好きな猟師の小十郎が、彼のことを好きな熊に殺される、という話です。 「戻ってきた夢」では、猟師がメス熊を仕留めるとき「おれは彼女にたいして悪いことをしたと思った」とあるのに対して、「なめとこ山の熊」では、小十郎を殴り殺した熊が「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」と言っているところなど、この二つの話は「熊と猟師」という素材だけでなく、構造や雰囲気にも似ているところが沢山あります。「なめとこ山の熊」に関して、中沢先生はこんな風に言っています。 熊という生命システムのなかに熊的な生命が生きている。それはひとつの特殊として生きている。ところがその動物を殺すと、動物のもっていた特殊性は消えてしまう。一般的な肉に変わると、ぼくらはそれを食べたりすることができるようになる。猟師というのはその境界線上を生きている。生きている熊に対応しているときは、まったく自分とはちがう呼吸をしているものとしてコミュニケーションを交わしているけれども、それを仕留めたときには、たちまちにして肉の塊になる。肉の塊になると、こんどは人間の自由がきくようになる。それを宮沢賢治は否定してはいないんだけれど、そこでなにが起こっているかを見極めようじゃないか、そういうために、ああいう童話をたくさん書いていると思うんだね(『哲学の東北』p.200)。 この「そこでなにが起こっているかを見極める」という部分は、上の「ものごとの全体性としての意味を理解する」と言い換えることも出来ると思います(この『哲学の東北』という本は私にとって重要で、これを読むまでは中沢先生のことを今ひとつ信用し切れないところがあったのですが、この本を読んでから、言い換えれば、宮沢賢治をとおして、私は中沢新一を信用できるようになったのでした)。 こんなふうに、この二つの話はとても関連が深く、しかもカイエ・ソバージュ・シリーズではたびたび宮沢賢治のことが取り上げられていて、「氷河鼠の毛皮」の話などは『熊から王へ』に全文が掲載されているのに、なぜか「なめとこ山の熊」はカイエ・ソバージュ・シリーズでは触れられていません。「戻ってきた夢」や「氷河鼠の毛皮」の話と「なめとこ山の熊」とはどこが違うのでしょうか。次の中沢先生の発言も「なめとこ山の熊」についてのものですが、この中にはそのヒントがあるように思います。 猟師は動物の世界へ自分をつなげているのです。ところが今のハンティングは違う。今のハンティングでは、人間があくまでも人間のままです。強力な飛び道具がありますから。人間が人間の世界にとどまっていて、動物の世界をしとめるという関係が出来上がっています。昔の猟師は人間の世界に落ち着いていては猟はできない。動物が知覚している世界や感情の世界と一体になって走っていかないと駄目なんですね。狩猟民はみんなそうです。人間と動物が、機械的に結合して、新しいメハニカが出来上がったとき、狩猟の文化は生まれました。 それはメハニカであってメルヘンじゃないでしょう。むしろ科学でしょう。ただ、普通の科学ではない。普通の科学はハンティングと同じです。人間は人間の意識の中にいて、自然をショットするのですから。ところがそれは不可能だと言いだしたのが、量子力学です。人間の意識と物質の世界が一体になって、メハニカ状態になったところで量子力学の記述が生まれる。量子力学はですから、シャレですけど、狩猟に近い科学です。 動物と人間が結合して、新しいメハニカを作っていく。そしてそのメハニカの目で世界を見ていく。『なめとこ山の熊』を見ていますと、ロマンチックなメルヘンの感じがしますけれど、僕はむしろあれに新しいメハニカを感じる 私は量子力学についてほとんど何も知らないのですが、ここで書かれているのは不確定性原理に関係することなのではないかと思います。不確定性原理というのは、電子のような、もの凄く小さなものの動きを観察しようとすると、観察のために当てた光の粒子がぶつかって動きが変化するので、完全に正確なことは測定できない、というようなことらしいです。ここで言われているのは、そうして得られた測定結果というものは、「物質を観察する」という人間の意識と、観察される物質の世界が一体になったものと見なすことができる、というようなことではないかと私は考えています。 ちょっと話がわきにそれましたが、「なめとこ山の熊」が問題なのは「ロマンチックなメルヘンの感じ」がする、という部分なのではないかと思うのです。実際に読んでもらうとわかりますが、中沢先生のようにこの話を「科学的」に受け止めるのは変わった人であって、多くの人は「小十郎や熊がかわいそう(荒物屋の旦那は悪い奴だ)」というような、感情的な理解で終わってしまうのではないでしょうか。そしてそれは、単なる理解不足というだけでなく、恐ろしい結果につながってしまうことがある(あった)ようなのです。 中沢――ゲッベルスだって、ゲーリングだって、初期のファシズムの思想家って、驚くなかれ、みんな仏教フリークだぜ。 宮崎――エッ、そうなんですか。そうか、ドイツロマン主義ですからね。ドイツロマン主義に共通するのは、そういう自分の精神から始まって世界精神に向かっていくという発想をもったから。それが何でファシズムになっちゃったんでしょうか。 中沢――何でじゃない。ええい、出来の悪い弟子だな(笑)。ファシズムは悪だと最初から決めるからそういう発言になる。(中略) 宮崎――先生は、本文の中で、大正デモクラシーが、一方でファシズムにいって、一方で宮沢賢治にいったというようなことをおっしゃってますね。 中沢――それはけっこう正しいような気がするな。宮沢賢治のナルシシズムということと関係しているんだけれど、(中略)天皇制のひとつの原型に幼童天皇というのがあるでしょう。幼い子供のような天皇というのが中心にあって、それが美の中心になっている。これは美的権力たるファシズムにつながるナルシシズムの権力観なんだ。宮沢賢治の空間って、そこにつながってる。ファシズムもナルシスの空間につながってるし。(中略) 宮崎――この間「意思の勝利」というナチ党大会のビデオを観た時もそれを感じました。その時は意外だったんですけれど、ヒットラーに熱狂してるのは女性や子供たちである、と映像は写している。ヒットラーは「女や子供の持っているピュアな理想世界を実現する者」として描かれている。ナルシシズム。 これは、科学的態度ではなく、感覚的・感情的な理解だけで神話や宗教を現代社会に持ち込むと、ナチスドイツのようなファシズムの道に入っていってしまう、ということを言っているのではないか思います。つまり、ある人にとってヒットラーは「悪い荒物屋の旦那」をやっつけてくれる人だったのではないでしょうか。この危険性については、中沢先生の最近の著作の中にも書かれています。 ものごとの完全性をめざしたはずの社会主義は、まったく逆の全体主義を生み出すことになってしまいました。神話を近代の社会にそのままのかたちで復活させようとしたナチズムの試みも、同じようにして失敗しています。近代西欧でも日本でも、対称性の思考の現実化の試みはまったく成功しませんでした。直線的な時間の観念や拡大していく世界という、近代的な思考の内部でおこなわれるこのような試みは、うまくいかないどころか、めざしたものと正反対の結果を生み出してきたのです(『芸術人類学』p.viii-ix)。 これは、中沢先生の書いた『虹の階梯』を「そのままのかたちで」使って修行をしていたオウム真理教が、「霞ヶ関の悪い人」をサリンで「ポア」しようとした事件とも関係のあることでしょう。この事件は中沢先生にとって致命的なものだったと思いますし、いまだにこのことで批判されてもいます。 事件当時、私はまだ中沢先生に関心がなかったので、どんな発言や報道があったのか詳しくは知らないのですが、(私の知る限り)中沢先生は立派な人格者とかでは全然なくて、卑怯なところや弱い面も少なからず持っている人なので、事件後の発言がまずかったりしたこともあったんだろうと思います。 事件後、中沢先生は「宗教学者中沢新一は死んだ」と言ったらしいのですが、以前に「宗教学者は宗教の目利きである」(『宗教入門』マドラ出版 1993年 p.89)と言っていたことから考えると、これは「事件を予見・予防できなかった自分は、宗教の目利きとしての宗教学者失格である」というような意味だったのではないか、と私は思っています。 現生人類の言語においては、無意識の側から自律的な運動をとおして突き上げてくる「みずからを構成しつつある秩序」と、できあがった言語体系として「すでに構成された秩序」とが、おたがいを規定しあい、せめぎあいを演じている場所に、具体的な言葉は語り出されているということだと思います。流動的な無意識に内在する運動傾向が、言語の構造を押し上げているとも言えるし、言語の構造が無意識に影響をおよぼして、その運動傾向を決定しているのだとも言えます(『対称性人類学』p.79-80)。 この「みずからを構成しつつある秩序」というのは、中沢先生の書いたものの中によく出てくるものの見かたです。例えば、次の文章はまだ昭和の頃に書かれたものですが、「みずからを構成しつつある秩序」についてのものです。 のっけから世界をソリッドな結晶体の集合と見誤ることなくゆらぎをはらんだソフトな構造を自己生成する流体的なプロセスとして捉えるものの見方。ものごとの統一的な理解をもたらす超越的な場から出発するのではなく、存在のオートノミー(自律性)の側から世界の多様性を見ていくいき方。(中略)仏教やタオなどが、宗教的なそれぞれの表現をつうじて言おうとしているのは、こういうラジカルな流体的思想への手引きにほかならないのである(『雪片曲線論』p.37)。 最近書かれてたものに比べると、「(良くも悪くも)文章が若いなあ」という印象を受けますが、ここで言われている「自己生成する構造」や「存在の自律性」とは、「みずからを構成しつつある秩序」と同じものを指していると考えてよいでしょう。そしてこれは、チベット仏教で「ランジュン」という言葉で表されるものです。次の文章は、『カンドゥ・ニンティク』というテキストの解説の一部です。 秩序というものがどこから来るかを考えるとき、無秩序な状態に対して、外から誰かが守るべき規則を与えて秩序のある状態を作る、というのが分かりやすい考え方です。『旧約聖書』のモーセが、神様から人間の守るべき規則(=十戒)を授かった、ということとか、国会の偉い人(?)が法律を決める、とかいうのがこれです。 でも、世の中にある秩序というのは、こういう考え方では説明が難しいものも沢山あります。言葉には文法などの秩序がありますし、生き物だって細胞や臓器が秩序正しく働くから生きていられるのです。このような秩序は、誰かが外から与えたものなのでしょうか? それは神様が与えたのだ、と言えば簡単ですが、仏教ではそうは言いません。それは自然に生まれてきたというのです。現代の複雑系の研究では「自己組織化」という言葉でこれを表していますし、スチュアート・カウフマンはこのことを「無償の秩序」(『自己組織化と進化の論理』米沢富美子訳)と表現しています。 この自己組織化というのは、結構めんどくさい考え方なのですが、すごく簡単に言えば「単純なことが膨大に繰返されると、複雑な秩序が生まれる(こともある)」ということになるかと思います(具体的な例について興味のある方は、上掲の『雪片曲線論』や『自己組織化と進化の論理』を見て下さい)。 さらに、生まれてすぐ消えてしまったり変わってしまったのでは、秩序は成り立ちません。生まれてきた秩序は、ある程度持続する必要があるのです。これは、生態系の秩序について考えるとよくわかります。 種というものは、保守的であるといいましたが、これにもまた理由があるんです。種というものはモンシロチョウならモンシロチョウ、マツの木ならマツの木で、他のものと無関係に生存しているのかというと、そういうものではないのです。生物社会学の立場からいうと、種というものは一つの単位社会をつくっている。しかし、この種の社会というものは、いろいろの種の社会が集まってつくっているもう一つ次元の高い生物全体の社会からみますと、その部分社会である。そこにはやはり全体社会としてのちゃんとした構造があって、構造の部品としてそれぞれの種のしめるべき地位というものもきまっている。だから、全体の立場からみたら、それを構成する部分としての種が勝手に変わったのでは、全体にひびが入るわけです。それでもう一つ次元の高い立場から種は変わってはいけないという要請が出てくるわけです(「人類の進化」『今西錦司全集』増補版 第10巻 p.50-51)。 生き物はふつう親と同じ形をしていますが、もし子供の形がどんどん変わって行くとしたらどうなるでしょうか。似たもの同士で群れを作ることができなくなるでしょうし、食べ物だと思って口に入れたものが毒だったりすることにもなって、生態系の秩序は破壊されてしまうでしょう。こう考えると、「みずからを構成しつつある秩序」と「すでに構成された秩序」とを成り立たせているのは、どちらも「繰返し」という仕掛けだということになるのかもしれません。 |
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