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やぶさめとは?/ レイク

[ 319] もろやま町/毛呂の流鏑馬
[引用サイト]  http://www.town.moroyama.saitama.jp/yabusame/index.htm

3頭の馬はそれぞれ一の馬、二の馬、三の馬と呼ばれ、一の馬が白で源氏を、二の馬が紫で藤原氏を、三の馬が赤で平氏をあらわしており、鎌倉武士の稽古、精進、合戦、凱旋という一連の生活のようすを表現しているといわれています。
騎者の勇壮な姿は確かに鎌倉武士の姿を彷彿とさせます。毛呂の流鏑馬は、郷土の民間信仰と密接に結びついて、今日まで受け継がれてきました。
春の流鏑馬は、その年の一の馬を努める地区だけが行います。6歳までの幼児が乗り子となり、願的という行事が行われます。
毛呂の流鏑馬は、郷土の民間信仰と結びついて、今日まで受け継がれてきました。このページでは、出雲伊波比神社のやぶさめについて紹介します。
流鏑馬やぶさめが奉納される出雲伊波比神社の歴史は古く、少なくとも中世には社が建立されていたと考えられます。文政8年(1825)に斉藤義彦が書き記した「臥竜山宮伝記がりゅうざんきゅうでんき」(神社所蔵)によれば、景行天皇の53年に創建され、その後、成務天皇の代に出雲臣武蔵国蔵兄多毛比命えたもひのみことが出雲の天穂日命あめのほひのみことを祀ったことが神社の名前の由来になったと伝えられます。
奈良時代の宝亀ほうき3年(772)の太政官符や、平安時代に醍醐天皇が編さんを命じた「延喜式時代には、源頼朝が畠山重忠に命じて社殿の増改築を行ったとも伝えられています。
なお、残されている資料から確実にわかっているところでは、神社所蔵の戦国時代の棟札むなふだから、大永7年(1527)に社殿が焼失し、翌、大永8年(1528)に当地を治めていた毛呂顕繁もろあきしげの手によって再建されたことがわかっています。
出雲伊波比神社によせられた武士たちの信仰は厚く、天正2年(1574)に小田原の北条氏政が社殿の屋根を修復して社領を寄進したことが伝えられ、神社には天正16年(1588)に出された北条氏照の印判状も現存します。この印判状は、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて神社の銅鐘を差出しなさいという内容のものです。
また、江戸時代には「飛来大明神」あるいは「毛呂明神」などと呼ばれて地域の信仰を集めていましたが、明治維新の後、政府から出された神仏分離令のもと、現在の名称で統一されて現在にいたっています。
現在の本殿は、毛呂顕繁が再建した当時の建築(一間社流造いっけんしゃながれづくり)を残すものとして埼玉県内最古の神社建築とされ、昭和13年(1938)には国宝に指定されましたが、その後、文化財保護法制定にともなう指定の再編によって昭和28年(1953)に国指定重要文化財となっています。
出雲伊波比神社の流鏑馬は、康平こうへい6年(1063)源頼義よりよし・義家父子が奥州平定のために当社に戦勝を祈願し、見事凱旋の際に再びこの地を訪れて流鏑馬を奉納したのがはじまりといわれています。
埼玉県内で今日まで伝えられている流鏑馬は、都幾川村萩日吉神社の流鏑馬と毛呂山町出雲伊波比神社の流鏑馬で、萩日吉神社のものは3年に一度おこなわれているので、毎年行われているのは出雲伊波比神社の流鏑馬が県内唯一のものとなりました。
出雲伊波比神社の流鏑馬は3つの当番区から出される一馬、二の馬、三の馬と呼ばれる3頭の馬によって奉納されます。
一の馬は白で源氏を、二の馬は紫で藤原氏を、三の馬は赤で平氏をあらわし、華やかに盛装した乗り子による3つの陣列が馬場にて馬を走らせ、矢を放ち、扇を広げ、ノロシをなびかせます。
これは、稽古、精進、出陣、合戦、凱旋という、鎌倉武士の一連の生活を表現しているのだといわれています。騎射は午前と午後にそれぞれおこなわれ、午前のものを「朝的あさまとう」、午後のものを「夕的ゆうまとう」といいます。
乗り子が子供であることも出雲伊波比神社の流鏑馬の特徴で、乗り子は町内の小中学生がつとめます。各当番区から忌いみ事のなかった氏子うじこの長男が選ばれることになっており、およそ10日間稽古・精進し、本番に臨むことになります。
なお、毛呂山町出雲伊波比神社の流鏑馬は、昭和33年に埼玉県選択民俗文化財(無形民俗文化財)となり、平成12年には「埼玉ふるさと自慢百選」にも選ばれました。

 

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