大和とは?/ セントラルファイナンス
[ 595] 戦艦大和
[引用サイト] http://www.biwa.ne.jp/~yamato/yamato.htm
|
遙か水平線の彼方の敵艦を攻撃する事ができた。これだけの大口径の主砲は後にも先にも大和型戦艦のみであった。 3式通常弾の3種類で、徹甲弾は、目標の手前で着水してもそのまま水中を直進して艦腹に当たるような工夫がされていた。 しかし、どんな砲身でも寿命があり、戦艦大和の主砲は1発撃つたびに砲身内に焼く3300気圧がかかるため、 ●防御・・・大和の艦体は舷側は厚さ41センチ、そして甲板は厚さ23センチ、砲塔は65センチという甲鉄で覆われ、 20キロ位先から打ち込まれる大和なみの砲弾や200キロ爆弾による急降下爆撃にも十分耐えられる防御であった。 更にそれ以外の居住区等部分は、できるだけ細かく仕切られて(1,147個)防水区画を作り、爆撃や浸水から身を守った。 また、煙突の通路は防御を張れないことから、大和は直径18センチの穴が無数に開いた「蜂の巣甲鈑」と呼ばれる装甲が設置され、 装備するため、防御や安定性を追求した結果である。幅が広ければ、当然速度が遅くなる。したがって、造波抵抗を軽減し、速力を増す ●大きさ・・・長さ263メートルというと東京駅位の長さに匹敵し、いわば鋼鉄製の東京駅が海に浮かんだようなもの。 しかし、排水量に比較すると、「小さい」戦艦であった。46センチ主砲を装備した上で、いかにコンパクトにするかでかなりの苦心があったという。 ●居住区・・・冷暖房完備、エレベーター付で当時の技術の粋を集めた装備がなされ、居住区は広く、兵員の寝起きに大抵の軍艦が釣床(ハンモック)を使用していたところ を大和では寝台を使用していた。居住区一人当たりの床面積は3.2�屬如�駆逐艦の3倍以上の広さである。したがって、他艦の乗組員からは を有し、外部電話回線1本も装備されていた。艦内が広く、また防毒の観点から伝声管については146本と少なめで、他に空気伝送管も14本装備されていた。 ●烹炊所・・・大和の烹炊所は上甲板に設備され、6斗炊き蒸気釜6個、6斗炊き副食釜2個が設備されていた。 ●同型艦・・・大和は、大和型戦艦の一番艦でネームシップであった。同型艦としては、武蔵、信濃の二隻が建造され、信濃については、航空母艦に改造された。 戦艦「大和」は、艦隊決戦の切り札となるべく、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工された。大和は対米英開戦直後の 昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工、第一戦隊に編入された。昭和17年2月には、これまで12年間にわたり連合艦隊の旗艦を務めた「長門」から旗艦の地位を譲り受け山本五十六長官の 太平洋戦争が始まり、日本は破竹の進撃を続けたわけであるが、その間大和は瀬戸内海の柱島基地において訓練に励んでいた。その後 昭和18年8月、戦場はソロモン海域に移り、大和も南方戦線の最大拠点であるトラック島に進出した。その後戦局は悪化していき、昭和 18年2月に大和は旗艦の座を二号艦の「武蔵」に譲ることとなった。その間大和はトラック島と日本を何度か往復したが、出撃の機会は訪れなかった。昭和18年12月に大和は米潜水艦スケートの 雷撃を受け、魚雷1本が右舷に命中、初めて損傷を被り、呉海軍工廠にて修理と共に高角砲、機銃の増設等の改装工事が行われた。 修理を終えた大和はリンガ泊地に進出し、米軍のサイパン侵攻に備えた。そして昭和19年6月11日から米機動部隊によるサイパン空襲が 行われたことから救援に行き、昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦となる。この時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたのである。目標は敵艦船ではなく、敵艦載機で27発(3斉射)を撃ったにすぎなかった。 爆弾一発が命中した。翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって3式通常弾24発、徹甲弾100発の主砲を発射し、敵空母に損傷を与えた。これが水上艦船に対する最初で最後の大和 の主砲攻撃となった。この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。 大和はその後日本に戻ったが、昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸した事から水上特攻部隊として出撃し、生還を望まない攻撃に出発した。大和は昭和20年4月6 戦艦大和は、沖縄に集結する敵水上艦艇、輸送船団を撃滅すべく、昭和20年4月6日午後3時20分、柱島基地から出撃した。生還を期しない水上特攻部隊の旗艦として僚艦9隻(軽巡矢矧、駆逐艦雪風、浜風、磯風、朝霜 、霞、初霜、冬月、涼月)と共に。制空権は敵にあり、大和が沖縄に到着するまでに敵航空機に撃沈される事は必至であり、作戦というより「大和の死に場所」を求めた特攻隊の美名を冠した出撃であった。 この出撃の際、大和は「片道分の燃料しか搭載していなかった」と言われている。当時連合艦隊参謀長より発せられた作戦計画は、搭載燃料2000トン以内というもので、大和が沖縄を往復する為には4000トンの燃料が必要な 当時基地の重油タンクは殆どが空で、訓練もできない状態であった。軍令部からの作戦命令も水上特攻である事と重油の枯渇により片道分の燃料としたのである。しかし、実際は往復できるだけの4000トンを搭載して出撃した 可能性が大である。現場である軍需部の独自の判断で当時「武士の情けを知らないような事はできない。」との事で軍令部の指示した2000トンは帳簿から出したが、それ以外の2000トンは空タンクに残っている重油を手押しポンプ このように命令に反するとわかりつつも、参謀ではなく一個人の大佐として往復燃料を搭載すべく尽力したのは、 燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは武人の情けにあらず。往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。今回無理を云って聯合艦隊参謀長に随行して来た私の目的は、唯この一点だけである。 1 各艦に往復燃料を補給する。然し聯合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので、片道分は帳簿外燃料より補給す。(タンクの底の重油は在庫として報告してない。之等を手押しポンプで集めれば、沢山となる。これが帳簿外重油) 2 補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした ・12月25日〜トラック島北方で米潜水艦「スケート」の雷撃を受け、右舷3番砲塔付近に魚雷1発が命中し、3番砲塔上部火薬庫に浸水。損害軽微によりトラック島へ。 日本海軍は、時がたてば人々の記憶から消え去る。しかし戦艦大和は、長く日本民族の心の底に残るであろう。 日本民族の血と汗と技術の結晶として、圧倒的な敵の矢面に立ち、全力をふるって戦い、ついに刀折れ矢尽きて倒れた。その最後の悲しさと雄々しさが 「サムライ」であり、日本民族の琴線にふれるのであろう・・・。(文春文庫「ドキュメント戦艦大和」より) |
セントラルファイナンスのサイトです。