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少ないとは?/ キャッシュワン

[ 88] 日本を訪れた外国人で少ない国籍ベスト3! | エキサイトニュース
[引用サイト]  http://www.excite.co.jp/News/bit/00091146572895.html

職場がある汐留付近を歩いていると、オフィス街から数多くの外国人ビジネスマンを目にする。そして銀座方面へ近づくと、今度は外国人観光客。そんな風景から国際化を実感する今日この頃だが、見ているとどうもアジア人が多そう。確かにニュースなどで発表されていた訪日外国人の人数では、近いからかアジアの国や関わりの深いアメリカが上位だったような……。では一体、訪日人数が少ない国はどこで何人ぐらいなのか? 上位がわかるなら下位もわかるはず。ということで法務省に聞いてみました。聞いてみると意外に簡単、法務省ではこのように日本を訪れた外国人の人数をデータで発表しているそう。最新で平成16年のデータが公表されているということで、早速そこから人数が少ない国を調べてみました。観光なのか、長期滞在なのかは別として、訪れた人数の総数から「日本を訪れた外国人で少ない国籍ベスト3」を発表したいと思います。まずは3位、「赤道ギニア」で8人。赤道直下に位置することから名づけられたアフリカの国。外務省のデータによると、およそ北海道の3分の1の国土で人口は49.4万人、公用語はスペイン語。ココアやコーヒー、木材などの農林業や原油採掘などの鉱業が主要産業とのこと。それにしても3位で8人とは少なすぎます。続いて2位は「コモロ」で6人。コモロ? 全く聞いたことがありませんがこちらもアフリカの国。東京都ぐらいの大きさで、人口は60万人。フランス語とアラビア語が公用語です。バニラ、丁字、イラン・イランなどの香料が主要産業とのこと。一体どんな国なのでしょうか? そしてコモロの家族はコモロファミリーなのでしょうか……、はい、続いて1位です。 1位は「バチカン」で5人。ご存知、ローマ市内にありながら世界一小さな国として認められているこちらの国。なんと国土は、0.44平方キロメートル。日本の皇居よりも小さく、人口は792人。公用語はラテン語。カトリックの総本山で、国全体は世界遺産に登録されているそうです。調べてみるとさすがベスト3、あまりの人数の少なさにビックリしました。そもそも人口が少ないというのもありますが、今後もっと国際化が進み、お互い行き来するようになればいいですね。ちなみにもうすぐベスト3の国としては、「ギニアビザウ」「サントメ・プリンシペ」が共に13人、「コンゴ」が14人、「セントクリストファー」「ソマリア」が15名とあと一歩の結果。それにしても、ほとんど名前を聞いたことがないのは筆者だけでしょうか。(木南広明)
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[ 89] 日本で犯罪が少ない理由
[引用サイト]  http://pine.zero.ad.jp/~zac81405/ethics.htm

「安全神話が崩壊した」と言われて久しいが、データを見れば安全神話はいまだ健在である。「激増する暴力犯罪が・・・」と言っている人々は、社会が安全になると失業するので無用の危機感をあおっているようにしか見えない。
貧困層が存在しないこと、失業率が伝統的に低く維持されてきたことは一つの原因かもしれない。しかし、過去30年の失業率と犯罪発生率の回帰係数は約0.5で、有意な相関関係はない。つまり、失業と犯罪は因果関係がほとんどない。
日本には伝統的に唯一神が存在せず、儒教的倫理は江戸時代中期にすでに崩壊していた。目に見える形での経典や言葉で簡単に説明し得るような倫理観が存在しないにもかかわらず、一神教の要請するような倫理的脅迫よりはるかに有効に機能する倫理とはいったい何か?
以下では、「武士道」には言及しない。それは江戸時代に武士は人口の10%に過ぎなかったためだ。少数の集団の慣習は国一般を論ずるには適さない。また新渡戸稲造自身が「武士道」の最後で、武士道がすぐに捨て去られたのは伝統に根ざしていないからだと述べているように、武士道は日本人の行動を律する原理としては機能していないという立場を筆者が取るためである。
農耕社会形成期の共同体の形成原理として、なんらかの倫理的取り決めが行われたことは想像できる。もともと日本語(漢字)の「倫理」という言葉が「倫(なかま・関係者)」への「理(道筋)」という成り立ちである点で、基本的に、仲間との共同関係のあり方の道筋として、初めから「共同体」を形成する意図を持って「倫理観」を規定してきた。
こうした状態に、儒教と仏教が導入されたが、聖徳太子に見られるように、その受容は、あくまでも「共同体形成」が主軸だった。仏教も儒教も、国家的理想が社会倫理を規定していく方向で、必要な部分だけをうまく切り取って受容してきたのだ。
日本人の倫理観は、その根底において、社会的・共同体的な現象の中で、人間関係がうまく確立され、それによって共同体がうまく維持・形成されていくことを志向することによって形造られてきた。
とされるが、個人がどんな過ちをしても共同体を破壊しない限りは寛容に受け入れられてきた。「中学の頃から酒を飲んでる」と聞けば、たいていの日本人は笑い飛ばすだけだが、アメリカなら裁判所に送られる。日本では「酔っ払い」を微笑ましいものとして寛容に対処するが、イスラム教国なら死刑、西欧諸国でも罰金は当然だ。
従って、共同体の中での関係がうまく保たれている状態が「幸せ」であるために、個々の礼節についての論理は極めて発達したが、倫理を体系的に国家や社会のあり方から根本的に問うような倫理観は、自覚的に取られなかった。
それ故、日本の倫理観を問題にするとき、性善説や性悪説といった個人の資質の問題であるよりも、むしろ「共同体的」形成論理としての倫理が長い歴史上に形成されてきたことを重視しなければらならない。
日本人は老荘を学んだわけでもないのに老荘的なところがあって、虚(無あるいは空)を上に置きたがる。また、虚の本質と効用を知っているようでもある。虚から全てが生まれるとも思っている
この点については、すでに気づいている論者もいる。フランスの哲学者ロラン・バルトなどをはじめ、「ミカドの肖像」の猪瀬直樹も「日本という国家の中心には空白がある」と述べている。これは、その空白を埋めるために、様々な外国産の思想を輸入しては捨て去るということを繰り返してきたという説である。
では、この「空」とはいったい何でありどのように日本人の倫理観を形成しているのだろうか?この点において、哲学史上の巨人である西田幾多郎的な「禅思想」からは一線を画したいと私は考えている。それは私を含めて日本の一般人は、禅がどういったものであるかすらほとんど知らないからだ。
倫理観の根源に宗教的思想を仮定したがるのは、マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムへの考察に引きづられているだけだ(「倫理」を考えている私も同類だが)。
こうした考えを持つ人々は、禅や石門神学、浄土真宗が日本の資本主義発展の源泉であるという結論に行き着いてしまう。私がそうした立場をとらないのは、私たち現代の世代はそうした考えを教わったことはなく、それが何であるかすらまったく知らないという単純な事実が根拠だ。
つまり、日本人の厳格な労働倫理や社会を安全に保っている道徳は宗教に基づくものではない。宗教とは最高裁判例によれば「超人間的存在を確信しそれを信仰・崇拝する心情または行為」だが、多くの犯罪を犯したことのない日本人は超人間的存在を信仰していない。反対にあらゆる宗教に対して懐疑的になることが現代の時代精神であるとすら言える。
「輸入された思想が伝統化しない」と指摘した丸山真男はついに自らの結論を示すことができないまま、なかばヒステリー的な主張に到達したが、それは必然の帰結だった。何故なら、西欧的意味の倫理観は日本には初めから存在しないからだ。この点が丸山真男が西洋主義者であるが故の限界だった。「日本には何故キリストがいないのか」という問いは、設問自体がすでに間違っていることに気付くべきだったのだ。
加藤周一などの知識人も、想像を絶する膨大な知識を駆使して日本という国家を論じた結果に、日本に西洋的意味の神や道徳が存在しないことが劣等性の証であるという結論に達した。加藤は、そもそも複数の文化を比較することには本質的に意味がないことに最後まで気付かなかった。
こうした戦後知識人の日本文化論は、「時間」や「歴史」の本質が直線的ではないことを忘れていた。他国との比較によって論点は明らかにならなかった。日本の伝統的価値観とは、「空」という名の価値相対主義であり、仏教や儒教ではない。
日本の倫理観(=価値相対主義)は、「経典」が存在しない点で、簡単な言葉で説明できない。なぜ一生懸命働くのか、なぜ真夜中の赤信号で止まるのかという問いに「当たり前」と答えることはできても、それが何故当たり前なのかを明快に解いた者を私は知らない。仮に明確に答えてとしても、現実を的確に形容したものにはならないだろう。
「空(くう)」とは、共同体に生きる上で守るべき秩序が、文化的・歴史的に集積したものだろう。私にはその程度のことしか言うことは出来ないが、これ以上の事を言える人間も知らないので、自らの主張を恥じる気はない。
しかし、作品の完成度こそ高いが、「精神的に豊かな時代」というものが世界史上に一度でも存在したことがあるのか、という疑問が残る。あらゆる時代において
もちろん、こうした指摘によって、日本人の方が精神的に豊かだという暴論を主張するつもりはない。しかし、ファレルの言う「徹底した退屈さ」を日本人が退屈だと思わないことは事実だろう。つまり、「平凡に生きる」ということを肯定的に受け入れるかが問題なのだ。
日本は、世界史的にも極めて珍しい「均質な国家」だといえる。ただ、それと同時に日本が極めて多元的な価値観を容認してきた事も事実だ。均質であるがゆえに、人種・宗教・貧富における差異が社会集団間で物理的紛争を起こさない事に加えて、平凡・普通である事を否定する不寛容(intolerance:一神教の排他性を表す語句)が存在しなかったことが、日本社会の安全を支えていることは間違いないだろう。
こうした意味での「相対主義と均質性」の伝統が、社会に無用の軋轢を生み出さなかった。それが日本社会の安全性を長いこと支えて来たといえるのではないか。

 

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